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浄化、入りましたね

今日配信のラジオで触れた通り、少し身体が”風邪気味”を感じている(書いている昨日時点の話)ので、軽い内容で流します。身体も「私」について行こうとしてくれている(*^^*)

昨日の朝、両眼を見て「花粉症の症状か?」と感じた。その前日にはかゆみもあったものだから。

そして朝食中は、「何か、なんとなく…」この状態がひたすら身体のあちこちに感じ取れて…。それが「もしかしたら風邪のひき始めか?」と思う。時期(タイミング)的にも”良いのかもな…”と承知しているものの、(この時期を活かした)予約しているもの・予約予定のものもあるので、管理はしたい。

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”身体も「私」について行こうとしてくれている”としているけども。

これは”どちらからともなく”という事は言えて、身体機能がその様に働くから、この私は無意識にそこからの”何か”を拾って(感じて)…、という流れになっているのだけど。

これは、収録して消してしまったラジオで話していた「自分自身への予言」のことと絡んでいて、詳細はまたの機会になってしまったけども、ひとつ因んだ事を書くと、やっぱり「矢印の向き」だと思っている。


今までの方向、私たちが普段それを当たり前に感じてしまうその方向・流れの状態をベースに、「振り返る」という動作を行った時、そこには、その時見えてこなかった「モノが立ち昇る」ということ。

→の向きを持った状態で(ベース)、←という向きで振り返ることで「向きの逆なで」による”何か”が集めやすい。それは正しいか誤りかというよりも、そこに集められるものは、「自分が(無意識に)焦点を当てているもの」という機能の集合を見せられているように思う。

意図して”もの”を集める(拾う)のでなく、見えてくるものから束ねられるモノという順序。


ここでは矢印は、コトの把握の意味で重要で、「起きている事から束ねられる」ことが分かれば、それを”経過”という時間経過を待たなくても、「ここ」という時点でそれが可能という理屈になるわけで、習慣になっている→の向きからのスタートではなく、「ここに起きてくる事から流していく」という、そもそもこの現在の時点から「←」の向きで捉えるという事に転換できるという話。

私たちが無意識に持っている→の方向から考えるクセ。悪いわけではないのだけども、経過という流れを観た上で少し分解して考えてみると、そういう事が見えてくるのではないかと思う。


(昨日途中でやめたポスト)

両方の向きの矢印から導き出した、その”気づき”。

実際に今までの習慣で行っていた”振り返り”という動作は、ただ単に”その内容自体を振り返る”という意味だけでなく、「流れ」という時の経過・左右の向きを変えて観えたことから「結果的にそう言えること」を拾う。

もし、世の中に「裏技」というものがあるのなら、そういう事なんじゃないかと思う。

・・・

ってね。

「・・・」で挟んだ部分は、”これで挟もう”と思って終わりの部分を先に書いておいたもの。意識はそれをメインにし、中間に”軽く流す”予定だったものの内容も頭から抜けてしまった(笑)

実は、こっちが”出したかったもの”という事になる。

そして結構感じているのは、ツラツラとか軽く行く感じの振りをしているものは、中身はそうじゃないという事。気づいている人もいます(笑)結構そういうものなので。


それは本当に、わざとそういう振りをしている訳じゃなくて、そういう流れで入って行ったものは「結構こうなるよね…」というケースが多いという”結果”から見えてきたもの。

そしてこういう事を現してしまう(説明してしまう)と、この説明(言葉)に囚われてしまい、あくまでも結果からそう見えてきたものを「そういうもの」という短い距離で捉えてしまう事が多い。

あくまでも”結果として”見ることで該当するのであって、初めから「これはこうだから」ではないという事は、他のことでもかなり言えることだろうと思っている。

この世の中、だから「逆」になってしまうのだよね。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!