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空間が維持されて視えた…

エア~メ~ル。
これは本当におもしろいと思った。

エア~と言っているのだから、ホントに空間をふわふわと飛び、”滞空時間”が長いような、そんなやり取り。

いやこれは、実際の、例えば素早い即レスのような直接のレスポンスなどの実際の確認ができるものの話ではなく、この”やり取り”自体が、既にエアー状態で、架空かもしれない、というレベルの話なのだけども。(いつもの”シンクロ”は大いにあり得て…)


だけど、その様に視えた(感じた)のよね、そこに。私はそういう空間が好きだから楽しいし、感動もする。

それはね。


私が発信をする。
そこでは”結論”は、いつも(大体)保留されていて、それがそのまま漂うエア~メ~ル。

文字はここという所に置かれながら、でも何か…目に見えないナニカは、ふわふわと空間を伝って行った―――、だからその受け取り手、仮にAさんは、その”ふわふわ”を待つような形で、その感触のまま受け取り、文字に残された内容直接ではなく、「漂った空気感」を壊さず、ご自分の中で発信して寄越す…、文字はそこに置かれまま。

その伝達が分かった(そう感じた)ので、私にまたその空気感だけが”返信”されて、こうして「エア~メ~ル」として、その雰囲気を文字にしたいと書いた。

・・・

これは、完全な本当に完璧なエアーと思ったんですね。

私はこうして簡単に書いてしまっているけども、私にはソコしか見えず(届かず)、凄い技術だなと思った。いや感性という名の技というのか(その方が)。

よく書くように、狭い世界で”私”というものが何かをする時、それは『一人よがり」です。その自由気ままなそれを、他者がその様に”処理できる”という事の能力がすごい、としか言えなくて。空気(空間)を抱き込んだまま少しも萎ませる事なくふんわりと返された。


考えてみれば分かる事だけども、人は他者のことなど、想像することがせいぜいの最大限で、”同じ空間”にする事など、稀有な事が多い。だから、こちらに返ったソレを感じて、「すごい」と率直に感じることが出来た、という意味がある。

想像するという事だって、十分に素晴らしい事だと思っているけども、私は同様の経験をして本当に初めて”知る”と思っていて、「想像することしかできない」と考えるところがあるから。

その難しいことが、何の障害もなく行って帰ってくるような感覚をソコに見たように思った。

こういう事が、とても私は嬉しい。


では、またまた少し続けていきますよ(*^^*)

実は、昨日の記事は終盤で、伸びに伸びてあちこちへ”のぺ~”っとしてしまって、書き換えや削除したりで切り上げました。

この肉付けの時の特徴でもあるのか(私の場合)、書くという事でその”中”に入り過ぎてしまい、部分がそこだけ大きくなり過ぎて、下手すると大元から離れるという事が起きます。


長くなる程、最初へ戻って読み返すという行い自体が”億劫”(←ここ重要)になり、読み返せば路線は確認できるのに、「仕上げ」の方に急ぐ姿勢が最初へ戻って確認することをさせなくする…、その結果上記の様なパターンにハマる、という事も傾向として観えている。

書くという事だけでなく、モノコトはそういう事が多いと思う。進んで来てその近辺ばかりをチェックしていつの間に可動範囲が狭くなっている事に気づかなくなる近視眼。私たちによくあるパターン。

「初心に帰って」ということは、心の話だけではない全ての”目的”という捉え方で言って同じ。

初心という始まりにおいて、既にゴールを見ているから”はじまり”が起こる。そんな事を感じる―――。

・・・

これも前振りになりました。

”同じ”ですね。「私(個)・他者(世界)」の見え方も。

どこにも切れ目のない物事を、私達の意識上で切る、切断しているだけであって、それを現す言葉によって切れてしまうだけであって、そこは一連の繋がり、連なり。

いや、バラバラのものを繋げて解釈するのはこの私達の自覚する意識のする事だけども。この表現にそもそも「私達の意識のすること」としている通り、通常「個」と自覚できる範囲はごく狭い世界の見え方でしかなく、それは「個」「個」によって、結ぶ世界(線)が、異なるから同じ世界を見ていない、となっているわけで。


昨日の記事を仕上げていく中で”削除したり”した部分は、他へ貼り付け保存したのだけども、一旦そこへ書き出した事によって、脳内から出力するために現に文字に表わし→それを読むことで自ら確認したらば→そこに矛盾を観るというか、書こうとしていた事が軽く即座に破綻すると言うか…。そんな事が観えてしまい、そこから話がのぺ~っと続くことが理由だった。

せめてもう少し、昨日の記事に寄せておくならば、人としてせっかく後にこうして成長してきた自覚「意志(意思)」というものがあるならば、それをより良く使う方向で活用したい、という希望から。その意志を惰性の陰で眠らせたままにせず、しっかりと使い、それによって自らを導くことができるから。

さらに。

”十分”という姿勢はもちろん素晴らしいし、文句もない。だけどいつも誰かが見えないカタチだったとしても、必ず導くとなしに先を歩いてくれているもので。

そうした事は、私達の自覚は淡くとも、”目指したい”と密かに思う存在であったりして、そこに対する「想い」によって私たちの行動は引っ張られていく。私は、世の中の様々な人たちの導きを受けて、こうして進んできたと思っている。

行いは正にこの「自分」であったことはその通りだけども、うまく導く人ほど、先導している事を見せずにやるから、通常は私たちは気付かない…自分の手柄みたいに感じる(笑)。その人達がただ居てくれるだけで、追いかける様になるというのは、一番上手なやり方だと私は思っている。

気づかずに自分の中の「想い」を引き出されている(*^^*)

視野を広げてみると、いつの間に「自分」という所からはみ出して”他者”がそこに在ることが観えてくる。切り取る範囲で自・他は変わってくる事になる。

そしていつもこうして、ソコを書こうとするほどに中々ソコは表せず、その周辺が集まりだしてそれを現わすという事が、まるで自己の世界において、それを表すのは”それ以外の周囲”によって現わされる、とでも言うように重なってみえた。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!