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意識を開いて行うこと


動物的な動き・生き方として、それは引き継ぐとなしに引き継がれる名残。

その名残が残るかどうかも、種による引継ぎか…?

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私は、遺伝(子)のことは分からないという前提で書いて行くのだけども、犬のある動作を表した表現を目にして、世界は”人”の中へスライドした。人と犬のそれぞれである存在を、分けずに”どちらにもそうある”事として重ねて視ている。

家の中ではしっかりと排泄をするのに、外という広く大きな世界では、それができないという。たまたましたくなかったのではなく、帰宅して直ちにできるという事であれば、「外ではしない・出来ない」という意思の表れとみた…。

なるほど。

安全地帯から出たその世界は、自分の痕跡を残すなど、動物的にはムリ~な話で、人がそれをできるのは、恐怖ではないという事を知る・分かるからであって、動物的な動作としては当然なことだ…と思っていた。

そして同時に、その行為は人はできるけども、もっと人の空間の意味合いを濃くして考えると動物のそれとピッタリの行いも見つかる―――。


人として成長してきて、自分の存在をここに現わすという事は当然の芽生えだと思うのだけど、これが意外にも本当にやろうとすると難しく出来ない、萎える、諦めるなどの、実際の産み出しの難しさを感じるのは、多くの人が経験している事だと思う、自覚の有無は別として。

存在しているのだからそう現したい、だけどこの大きな世界に「個」を出すこと、残してしまう事は自分を危険にさらしてしまう行為でもあり、とてもとても危険でやれやしない…、個でありたいと思いながら、全体に染まっている事を選んで結局はやはり安全のままでいたい。

完全に外と内との境もない人はいないわけで、様々な境界の持ち方・張り方で区別をすることで、自分というものを囲って安全を保つのだけど、私たち人の無意識の行いは、人としては無意識だけど、動物的には意識的、意図的であること(このケース・時点の話)。


その事を思うと、大きな世界でもそのまま自然的に「個」を出す人はいるものの、大半でとても難しく感じるのは、一面では仕方なく…、でもそこからやはり私たちは「人」なので、それとしての成長が可能であるという事が言えるだろうと思った。

慣れるというのは、本当に殆どのことがその言葉で説明ができてしまって、初めに出来なかった事も、その環境に慣れてしまえばそこは、”憶えのある自分の大丈夫な場所”という様に境界がゆるむ。慣れなければ「ここは敵地かもしれなく」て痕跡など残せない。

人の世界は本当にそんなに怖いものなのか…。

自分がただ普通に動作しているだけで、何か恐怖に晒されてしまう様なことが日々起き続けてしまう様な場所ばかりなのか。悲しくもその様な場所も世界にはあるのだけど、そうじゃない場所に居るのだから、その振る舞いをするのが人として自然、ということと思っている―――。

・・・

「そこ」に見えることをまずズラズラと書いていたのだけども、トータルを読み直していて”その前”に返らなければならない事に気づく。

前半に書いたものは既に”利口”な意識が働く、分離の状態が芽生えているからで、それ以前の区切りのない状態では、そんな事も関係なくやっていただろう、という事。元は”できてしまう”状態がある、「何も分からない」から。

それが少し何かが分かると、その環境・状況から”学んで”しまうので、留めたままにしてしまう、という事を身につける。この習慣が非常に長いので、これが当たり前という感覚を無意識に刻む。


ただできた状態→社会を学びできなくなる→再び”できる”へと、この最後の部分は「意識してやる」という同じやって行く事にしても、自分の意識を一緒に持っていなければならず、ここがきつい事なのだと感じた。

無意識でやってしまう事に恥じらいなどない、自覚できる状態で内でなら通常にやる事を、広い世界でやるという事ここに、見えない大きな差がある。身体的には可能である事、脳・意識の発達、それらを合わせて使っていくことの困難さを、何かの実行のたびに様々な面で自分によって挫かれる。そんな事なのだと思う。

身体の能力を頭の成長とともに見えなくしている部分があるのだと思う。この身体自体のハタラキの有能さに目を向けることなどないし、全くそんな機能を気にする事もなく使ってきたから。

だけど、身体の不調が増えたり、いつもできる事ができなかったりの頻度が増すと、逆によく働いている普段の状態に少し意識が開く。繋がっているからどちらもだけど、人としての進化がこの身体の動きを止めてしまわないように、この肉体が脳の成長の足を引っ張らないように…。

生身の限界はあるけども、脳との分断をあまり作らない方が自分にとってのベストだろうと、なんとなく感じている。


書き出す以前は、「世界(社会)という広い場所に、”痕跡”を残すというのは意外と勇気のいる事」という様な内容で書くつもりでいた。事実途中までその様に書いていったのだけども。

大方書き出して、例のごとくこの自分で読み返すと・・・、「いやいや、赤ちゃんの時はリズム関係なく四六時中やってるよね?(人)」と思って。顔を真っ赤にしてブリリと出す姿は、意識などなく機能そのものと思う。意識が持たれるまでは「機能」なんだよね、私たちの”これ”という存在は。

殆どが「無意識」。そのうち自覚の出来ている”意識”はごくごく一部という事は分かりやすい話。認識できている事しか分からない状態を、常に抱えている「人」の意識状態は、やはり多くの”知っている・分かっている”を錯覚させて見せてくれる。だっていつでも自覚・意識できることは、その”空間一杯”という事だから。


その経緯があって、人には「分からない事」がどうやら沢山、殆どがそうであるらしい…という事は分かってくると、今度はその”分かる”空間にそれが入った状態になっているだけで、空間自体は変わらない、を暫く続ける(のかもしれない)。

たとえ、頭の中の理解だけだったとしても。

私は段階を目一杯に進んで行って良いのだと思っている。

意識側に少し上がった、だけどまだまだ分からない、知った事によって余計に複雑に分からなかったり迷ったりも生じる。答えがないから仕方ない。

ただ、先日思っていたのは、その無明の状態を、”それを抱えてどれだけ歩いて行けるか”なんだろうと思っている。暗いことを堅苦しく考える必要もなくて、その状態を抱えられるその時間が自分を明るさへ繋げてくれるわけで、宙ぶらりんを少し気持ちが晴れないかもしれないモヤリを抱えていることが、自分の思う外の何かと結んでくれるかもしれないから。

簡単な明るさで括ってみて自分を小さく所々で安心させながら、実は大きな明かりを探究中…、そんな状態は自分の答えが手に入るだけでなく、そうして力も身につけてくれるのだと思う。

(一般的な表現としては”?”という書き方も、殆どそのままにしている。基本的に”私の位置から見える事”の目線で書いているので、違和感のある部分は、そういう事です)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!