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意識からの指図

では、年末からの続き、関連を書いていきます。

「シンクロ」というものに拘る必要も、ハッキリ言ってないのだけども、私はこれをどうしても自分の解釈から言葉を付けたいと思い、ここまで観察してきた。

それはきっと、「私にとって必要なアプローチになる」という意識側(無意識の意)からの”指図” なんだろうと思う。

(だからまた、”そういう事か!”の瞬間は来るのかも、しれない(*^^*))

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「全体」という全ての世界は、”何でもある”というのが全てというもので、ここに他の意味も何もなく、文字通り「全て」がそこに在る。

その中から、「自分という”私”」に取り込む/取り込まない、好き/嫌い…という様に選別して振り分けていったモノとしての存在、「個」。自ずと・自ら、分けた”自分”が出来上がる。

それは良いんだよね、良い事。というより、個々がただそうであるのだから良いも悪いもない。


そして人にとって、”ココが難しいのかな”と感覚的に思うのは、「自分」というものを”主”としてイキてくるから、成長と共に、社会へ溶け込むと共に、他との違いに違和感や理解不能など、自分との違い・感覚の相違に悩んだり苦しんだり、が出てくる。

本来全てが揃っているものでない事など忘れてしまうから。当たり前に「自分」というものがある程に、苦しさを目にする事になる。

頭で理解している事と、それを受け容れる状態がある事は別のもの。だから、事が起きる現実世界、”事象”を都度観てゆっくりでも整理して自分を整える…、くり返し。


こうして書いている時は、「思考する頭」だから何の問題もない。現象に触れるという事の煩わしさというのは、脳内の比じゃない反応も時に生じる。少し話を大きくすると、「多様性」という事に世界が広がって来ている事から、余計にそういう事象は増える、目にする事になる。


理解から自分に少しずつ馴染ませて肚に落とす、という”身につけた状態”まで、ほんの少しずつでもチビチビ進む。特に今年はその「多様性」を意識せざるを得なくなる。

世界というものがそういう流れなら、それと共にある(受ける)というのが、”一致”。


書いていると本当にこれは”思考”なので、シンクロの話などどこかへ行ってしまっている(笑)だけど綴っていて感じたのは、個を際立たせた「主」の状態でありながら、実際に望むシンクロ「ピタリ!」がやって来ると、自分自身が驚くという矛盾。

それはきっと、この自分自身の考える「ピタリ!」の感覚自体は、実際のソレとズレているからだろうと思った。


12/29メモ (少し拡張した話)

”ズレはズレ”。

少し前に書いた、言葉がリフレイン。「シンクロがジャスト」と捉えるならば、それよりも少し「早い(遅い)※」という事が分かってくる。そういうパターンもあった事が、現象から観えてくる。

私は、Yさん(主人)と逆側にズレている。という事を、ある事を思いながら浮かべていた。分かるから手を出す(行う)という事は、そういう一面があったという事に気づく。

【予測・予想】
自覚のあり・なしはどちらでも良い。

シンクロ基準に考えたら、前後どちらにしても”ズレ”と言う現象に変わりがない。

うん。少し視野が拡がっている。

※”シンクロ”という目線に集中しての話。
(それはそれとして、きちんと”外の事象と私”というものはいつも”合って”いて全てが「ジャスト」という事は排除している)

・・・

「自分を抜く」というのは、本当に言うは易し、を再確認した状態。自分以外に譲るという意味でなく、モノコトという”全体”から、”自分の存在”を抜く(隠す?)というニュアンス。

これが事象・現象をそのままに「観る」という所にまた結ばれていく。意味の理解が出来た所からのプラクティス。

意味解釈はもう、足元の当たり前という意識にシフト。そこから何度もくり返しのクセをつけてそのパターンが身につく。


「型抜き」された自分のカタチというものが観えてくる状態というのは、いつもの「自分」という状態からズレた(外れた)状態でないと分からないもの。

そしてそれは、自分という軸から外れている訳だから、「不安定」な状態をも意味する。以下は12/31メモより。


”浮遊”している時、不安定である。

その状態で刺さる場所を探すもあり(なのかな?)。私はその状態を「眺める」を選択してきた。

「そこにいてみ?」
自分の声を信じて。

「放ったことが返って来る」という表現で、私の感覚として今思うのは。

「返る」というより「結ぶ」というもの。

脳のハタラキを観察していて、自分が意識している事(ここでは”放つ”)と、その後の事象は「結びつけて」考えるから。


その中には実際に”因果”の関係もあるけども、中身を良く選別して観ると、全てではなく「自分の脳内」という事で片付くものが多い、という事。

それを、「フォーカス・焦点」とも表現が可能。

(これはまた後に派生したように広がってメモしている)


思考も含めて「湧いたもの」を書き留めていると、脳の特徴が観えてくる。

やはり今日に至るまでの、メモを含むアチコチの出力は、かなり同様のモノコトが多い。生まれたものは「外へ」出たがっている。私はそう考えていて、次回の「曼荼羅の話」に繫げたいと思います。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!