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人参にするなよ~(笑)

今日、3/22で、父が亡くなって丁度一年になりました。

父がこちらに来てからの最後までは、本当に色々あった濃密なふた月で、今でもしっかりと憶えている反面、不思議な時間をチョッパヤで過ごした時でもあった。

その後も初めての経験が目白押しで、一時は忙しかったはずだけど、そんな事も時間が流れ続けるお蔭で、大分遠い出来事のようにさえ感じる。


その”時”というのは、本当に何も分かっていない。

それがどういう事なのか、どこに、どうのようにして結ばれて行くかなんて、人の目には全く見えていないのだと思う。

だから「一期一会」なんてステキな言葉が響くのだろうね。

昨日は主人の父のお墓参りの帰りに、いつもの買い物を。

牡丹餅を買う予定でいたのだけども、私が食べたいと思えず(主人は食べない)、ダンゴが食べたくてみたらし団子を買った。主人も食べられるし。

久しぶりに食べたその味は美味しかったな…、夜には殆ど飲む事のない緑茶を入れて少しまったりした。

『ダンゴに緑茶か…Gが喜びそうなもの、食べたな(*^^*)』

甘いものが好きで、よく食べたダンゴやお茶を飲みながら、やっぱりその時の記憶は甦った。


本当に色々あったよな…。
ここに来ることになったきっかけも、私が「書いている」事を知った事によるもの。重い腰を上げて動き出してここへ来た。「お前に教えてやる」「もう一度書きたい」と言って、書く事も教えてもらった事もなかったけども(笑)

似てるんだろう…、とことんその部分は同じなんだろう。

私は父の「言葉遊び」なんて知らずに、私も似たような事をしていたのだから。

私は亡くなった父と、”約束”している。

「私の中で、あなたを生かす」と。

・・・

人は、本当に矛盾するもので、やっぱり個というものは「バラバラ」の個性を持っているという事を、感じる。

在り方がバラバラだから、「同じ」に安心する。安心だけど、別個でありたい。そして大元根本は”同じ”。どこかの層だけで見れば言葉は付くけど、人は層に分けて見たり考えたりしないから、その時々で色んな面が出てくる。

一緒くたに混ざり込んだ縦一本のままで感じてしまうので、矛盾するし複雑な気持ちにもなる。

本当に人は無秩序。

それを、少しだけ利口に揃えて同じになる。

バラバラを前提に持つから「同じ」に価値が出る。あまり揃い過ぎると「違い」に傾き出す。

人はきちんと全体のバランスをとっているように思う。

自然なそれがやっぱり美しい様に思う。


全然関係のない話だけど、続けられる話(笑)

何がきっかけで、「人とのご縁」になるのかなんて本当に分からないもの。

今までにも何度か触れている、「表はフェイク」というもの。その現実的に実際に起きる事象自体を見続ければ、その範囲で終わりの話。そこがきっかけとなり、うっすらと、段々ハッキリと線が縁に見えてくる。


縁が見えてくるとその時点では既に、最初の”事象自体”へのフォーカスは薄れている状態。”人との繋がり”がどんどん濃くなったり、拡がったりのマンダラ。

モノコト自体に意味をとる事も勿論できるし、それを活用する事はできる。だけど恐らく、私は若い頃から「人に関心がある」ので、人の方へ焦点がズレて行く。

そんな目線がある為、事あるごとに「でき事から目線が外れて行く」。もう少し書くと、その時点での”外し方”の範囲は狭かったとしても、過去を観る習慣がある為、その時点では大きく”外して”観る事ができる。

その時、焦点をずらした観測をする為、捉え方がその時点とはかなり違ってくる、という事。


と考えると、そのモノゴトというのは、その瞬間は集中しながらもやはり刹那。後にそこから外れる事が可能なら、ちっとも固定されるものではない。

寧ろ、固定されたもの、固定したもの「その理由」の方に、関心を持ってみた方が良い。理由のないコトに執着など人はしないから。

話が大幅にズレてしまったけど、「ご縁」て結びたくて簡単に出来るものではないよね。何かご縁があるから結ばれるんだよね、という事(笑)

・・・

⦅へい!”ぱんぱん”⦆
マンガを知らない私は、初めて知りました(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!