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雨があると、わかる

またメモだらけになっているので、書いて無料マガジン「時間があったら読んでみ?」シリーズに入れておきます。3000文字弱で、長いです。

勿論、このままで読めるんですけど(笑)
長くなるものは、暇な時に読んで欲しいのですね、できるだけ。

そしてこれは、自分の目の使い方、延いてはモノの観方として、是非取り入れて頂きたい、と、私にしては珍しく希望を込めたいと思います。


奥行き(前後)というイメージで書いています。

(5/11メモ)
実際に、”現実”を見る「目」自体が私は焦点の場所が違うと解った。少なくともこの時はそうだった。

『自販機』

先日は、主人の早帰りの日に買い物に行ったのだけども。
日中、主人が自販機でコーヒーを買ったら当たって、選んだものは私へのフルーツミックスジュースだった。

当たった時、回っている(?)間に商品を選ばなくちゃいけないらしく、時間をかけて選ぶ暇などないらしい(笑)それが私へのそれだったのだけども。

果物は殆ど買ってまで食べないのに、フルーツヨーグルトやミックスジュースなどは結構好きで。私は喜んで主人からもらった。


車から降りて、自販機の並ぶ前を通りながら、

「あるじゃん、あれ。」
もらったばかりのジュースが自販機の一つに入っていた。

「??、今の自販機って”メーカー”入ってないんだね。昔は入っていたじゃない?」

自販機のボディにデカデカと訴えるロゴなどがなく、白い。隣のものも白かった。

もう一度よく探すと、商品が並んでいる背景の絵(ポスター?)に何かが邪魔しながら漸く見つける事ができた・・・、「ここにあるね」と主人に言って。

「あの、ここにあるけどね(。´・ω・)?」

よくよく見ると、”何か邪魔”してくれている、ソレ、がロゴだった。自分で笑っちゃうと同時に、「焦点、ここ?」という問いと。そこから自分の無意識の”フォーカス”が観えた。

(そういう事か…)

この事を通して、今の自分の状態がやっぱり、透かして視えてくる様に感じた。

それは私が、無意識にやっていた事、身体(機能)の使い方などが、部分部分で観えるという事。それらを事象を通して「そういう事」がぼんやり見えてきている。

もっと脳内を視てみたい、どんな風に生きているのか見たい。

また好奇心が湧く。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

そしてこの数日のそんなこんなからの今朝メモ。

そもそも。
自分の”目”というもののピントが、どこに焦点を合わせているかなんて、考えた事も、疑った事もないと思う。だってそれは「自分の普通」だから。

でもそれが、ちゃんとハッキリ視えてくれる時がある。今私はそういう目線が多い、と、先日触れた通り(自販機の話)。

子供の頃からなのかというと、私の場合は”違う”と思う。

そういう所は僅かにあったかもしれない、と思うけども、「今」というもので比較すると、それは比じゃない。

自分の前後のピント調整の仕方を、客観するようになった…、と言ってもこれは、事象としては小さくても、衝撃としては大きな”自販機”の話があったから気づけている。


そして、そこすら他とは違う、各々違うのかもしれないという事に気づく事で、今度は他のソレは、どこにピントを合わせているかが、普通に視える、という事になる。

自分が経験しているモノ(コト)、気づきがないと、ソレは自分の”想像”でしかない。


と、メモした。

そしてまたこうしてnoteに移しながら気づくものがあり。

それは、『背景から押し出される|☆うみのみか☆|note』の中の”目のピント”の話が脳内に上がってきていた。

現実的な「目」を見て焦点の違いを感じるものと、表に現わしていないモノの焦点の違い。

捉えようによってはバラバラな話だけども、それらを一点、結んでいるとしたら「無意識」と、現時点ではかなりぼんやりだけど、微かに掴めるのはそれしかないから、今はその様に書きます。

(上記を掴んだ時の体の反応は、”胸”の奥の、何かそこに目を向けさせられる感覚。実際には”反応”があったのではなく、そう書いた事によって、自分の体に感じる部分に切り替えるとそこが”胸”だった、ということ)


冒頭に書いた”希望”は、無意識に気づけ、という話じゃなくて。そんなことを独りでやるのは難しいし、思い込み・思い違いも多くあるからそうでなくて。

本当に、心底。
「人」というものは、それぞれ全く違うものを持っているよ、という『観方』。これの事。

何度も触れてきているように(←いや、言葉で言ってない笑)、人と共感・同調できる事は、どちらかと言えば珍しい、”ラッキー”とも言える事なんじゃないかという事。

見え方が違うかもしれないのに、いつの間に当然のように、同じ見方、捉え方、考え方をしている、と無意識でくっつけているから。

今、全く理解されなくてもいい。

でも、私は「逆」を送り出すから。

そうして偏りは中和に流すから。


(5/10メモ)

あ、少しわかった。
「聞こえ方が違う」とたまに書いているけども。

状態を掴みにくい時は、情報量が多い又は、言語の解釈が私にとって難しい時などと言える。

そしてこの、「聞こえ方」という時の脳の使い方は、「ピント・焦点」が同時に全てが瞬時に、”一致”した時、と言える。

その時、聞こえ方は非常にクリアだという事。ストンと入ってくる瞬間という事。


普段、どれだけズレているか、このズレの状態を普段の標準、として感覚していると気づく。

このボヤケた聞き方(聞こえ方)は、ピタッと一致していないと思えた。

ただ脳は利口だから。

その”不一致”の状態が何か、「自分を守るためには必要な機能」なのだとしたら、これはこれで”普段”としていいのかもしれない―――。

と、結論なんて出せない、探求の遊びだ。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

(これは、私がたまに言う、”聞こえ方が違う”、”入り方が違う”という表現をするものに対して書いているもので。そう考えると、本当に普段というものは、どれだけ”幻”のようなあやふやの中にいるのだろうか、とさえ思えた。

そしてそう考えると、人は100%現実という世界を生きる事ができないのかもしれない、という疑いも出て来る。

だから、地球で生きる事、他の星でなくこの地に降り立ったことは、それ自体が本当に凄い事なんだと、真の意味で目が覚めるまで生かされるんじゃないかと(笑)これは私の妄想として蛇足ですけどね)


noteに移してしまうなら、始めからそうすればいいのに。

何度か思った事がある。でもそれは、”状態”が全く違う事に気づく。

メモは湧き上がったモノをそのまま走り書きするもの。だから後に読んだり、書き移す時点で変えてしまいたい所はボチボチ出てきたりする・・・、「思考」に入ってしまうんだよね。

メモは誰が見るでもないもの。そこへ何を書いていようが自分の世界。いきなり誰かが見るかもしれない”発信”でそれをしようとしなくても、自分の世界で段階を踏んだっていい。

そしてその”段階”が、冷静なアタマでいる事で、「あー、あそこと繋がっていたな…」という更なる気づきも連れてくる。

この手順を踏んでいると、自分がどんどん可視化される、そんな風に私には視える。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!