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人生は考える事ばかりね

「また入ってくる」というのは
自分にとって何か特別なことかもしれないし、そうでない事かもしれない、両方。

両方まで広げて範囲は拡大していると言えて、それでもまずは俗にいう「良いこと」と思うのが普通と思う。

自分に力が出てくると、良いことだけでなく”来るモノ”を呑み込んで(消化して)行くようになる。

力がつくことと、受容の範囲は切っても切れないものだろうと思う…、全て繋がっている。

人だから、”良いこと”・”嫌なこと”と感じ、判定するのは自然なことだと思っている。それに対してそう感じてしまう自分の中の反応。嫌いな食べ物は食べない事にはそれがこの身で栄養となることはないのは、簡潔な説明だと思う。

何かを維持するために、何かで必要な状態ならば、消化することで血肉になる。

そしてもう一つ思うのは、良いことであれば、そのまま喜べることで自分が嬉しく消化し、嫌と感じたそれによって何かは吸収されるという”学びの機会”に考えることも出来る(拒否はもちろん可能)。結局どちらも身になる。

感情的には「イヤなもんはイヤだ」とあって良いわけで、逃れられるものなら逃げてしまえばよくて。ただ必要なことは、自分が本当に進んで行く時には、逃れられない状況に置かれるもの。その時はそれを選択するしかなく、それが後に自分の力になっていく。オオゴトなんてそう頻繁にはない。

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「何かが支え」
それが”何か”のお蔭と思うことはある面では美しく、素敵だと思っている。そういう場面があることは事実。

それを、確かめていなかったお蔭様の正体を、この自分自身に戻していく。”ここにある事”を少しずつ気づきに上げていく―――。

そんな作業を時間をかけて行って、自分を濃くしていくのだと思う。

”自分”という存在は、「大人の人」という立場の者でも、決して勝手にそれになる事はないと思っている。身体は大人になっていても、それを支える内側は勝手に育って行かない。

古い意識は状態としてしっかりと残っているとよく書いているけども、それと同じことで、これが一見する中で”最長”じゃないかと私は感じている。

幼い頃は、100%他者が与えてくれた。要求すれば何かを理解してもらえ、自分はただ要求するだけで間もなく「快適」になった、この事。


人の内側は、十分にその名残のままに生きている。名残どころかそれを主にして生きていることも多いと思う。何かコトに当たる時、この自分の”思い”をみるとすぐに明らかになった経験が私には沢山ある、今でもそうする事も普通に見つかる。

他者の力を借りられる、それが出来るなら使った方がいい。そういう関係を築いたのは自分だし、そうする事で喜びを得る他者もまたいるのだから正しい”協力関係”として活用するべきと思う。

結局人は、自分を中心に置きながら、その周りはすべて”他者”という存在に囲まれているわけで、そことの関係性の中で動いているわけで、昔のように要求すれば「勝手に快適になる」ことはない。


考えれば当たり前のことだけど、行いとしてはその様に当然のようにしてしまう事が大人の人間にもある事で、そんな”大人の自分”を見つけるたびに、ほんの少しずつ自分の力を使ってみる”実行”。

力はすぐに発揮できないもので、力の使い方も私たちは結構知らない。つまり多くのことを、この自分自身でありながら自らは使いこなせていないとなる。”自分仕様”になっているのは頭の中の話。

”大人の人”ができる事は、この自分自身を自ら望む方に近づける事、創り出していく事。自分の要求を自ら達成していく力があると、自分自身に教え続ける事だろうと思う。

(少し補足は、”具体的な”内容になるとその実行が正しく感じてしまい、「やろう」としてしまうこと。これが「極端」を作ってしまい、結局いつも何かをザブンザブンと右に左に揺らしているだけになる。いつも応えてくれるのは”自分自身”なので、外(情報)は主でなく時に無視する姿勢が必要。

生きる事は今だけでなくこの先も続くこと。自分の機嫌を取りながら、長旅はやんわりと続ける)

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人が学んでいく事は、本当にたくさんあり過ぎてまったく終わらない。

昨日話題になった非常に不快だった某ポスター。Xで表示しながら主人に話した…、その反応に多少の怒りも私にはあった。

「おもしろいとは思うけど、ナンチャラ…」

”おもしろい”。この考え方自体は非常によく分かるので、強い反論はしなかったけども、「状態」はとてもよく理解できる”危うさ”のある状態とみえた。

自分で、自分の意思で何でもやる(やれる)、今までの脳の縛りから解放され、自分を自由に放つことができるという状態になると、「やってもいい」ということに見境ない状態/考えが出る(こともある)。

こういう事に出くわすと、やはり私も一瞬は「その考えはいけない」と心は抵抗する、そんな事も分かんないのか?と。法律を知っている・いないは関係ない。他者が存在するなら当然この私も存在しているので、「ダメなもんはダメだよこんなのこの場で…」と言った。


たまたまだけど、”すすきのの頭部切断事件”について、和田秀樹先生の記事を読んだ。

”親の娘さんに対しての接し方は正しく、何も間違っていない”

という様な文言にこちらがショックだった。

そのように考える事、生きづらさを抱える娘に少しでも生きやすいように接したその在り方に全肯定だった。

家族の関係性と社会で起こしたソレは、まったく別のことで世界ははっきりと分かれていた。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!