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”編集”された?!

出力という動作は、自分による自覚のあるなしに関わらず、この自分自身に対し、外からの刺激を受けているのと同じく自分の中に反応というものがきちんとある、そう思った。

それを「意識の流れ・連なり」とか、”気づけばそこから繋がっていた”という様な、その時々でメモしたものと”繋がっていた”と、振り返ればそうだったという事を散々に書いてきた。

その今まで長らく続けるとなしに自然に行ってきた”習慣”は、役割を終えればふと、その行為自体も段々とフェードアウトする。そんな風に思う。

そしてそれを、意識的に”やっていた”ことであれば、「飽きた」という表現を付けることも出来る。私は「飽きる」という言葉の意味をマイナスに捉えることはなくて、ありきたりに言って”卒業”というニュアンスをそこに持っている。

何かが必要な時は、必然としてそれを欲し、十分に満たされればそれはもう”十分”なわけで、そこから自然と離れるものと思っている所がある。

今までにも何度かその様な内容に触れているけども、例えば、食べ物。ある食べ物を集中的に欲し、どの位か飽きるまで定期的に食べる(飲む)。暫くすればそこから離れる自分がいることは分かっているから、その時までは自然と摂取し続ける。

そしてそれは食べ物だけじゃない。

・・・

好きな音楽を何曲かくり返し聴き込んで、散々言葉を叩き込む。

リズムを身体に浴び続ける
目は好きなシーンを追いながら。

一週間近くくり返しているかな。そこが埋まるまで視続けるその時、”飽き”のない快感。

脳のフォーカスは、ある一定を経て切り替わる。

・あれ、この人、こんなに映っていたんだ
・うわ~、すごい素敵な仕草をするんだな…
・かっこいいなぁ…

などなど。

今までだって散々目にし聴いていたのに、その日突然、違うシーンばかりが目につき、釘付けになる。

「編集された?」

もう7年も前の動画。今更何かの話題があった訳でもなく、わざわざ編集なんかしないだろう…?

頭の中のフォーカスが明らかに違うと思った。

”主”だけを中心に見ていた所から、それを繋いでいる”その外”の部分に目線が(一部)ズレた、その部分へのフォーカスが強まった、と思った。

初めの飽きずに浴びる状態は、”私”という人の注目・興味の範囲「好き」という関心の類いだと思った。その中で変わらず視聴をし続けて、この感覚に外からジワジワと沁みてくるそれは、明らかに自分から外→でなく、外から内←の向きだと思った。

そしてそれを、フォーカスという視点で書くから、何か一点のデキゴトのようだけどそれは、動いている世界の、その世界から自分への”干渉”のように感じた。

・・・

これは昨日のメモだけども、この「出力」までには様々な”なんでもない様な”日常風景・動作があるだけで、行いもここの最近のいつもを行っていただけ。

その中で、いつもの動作から「何かが外れる」という事を、ただその時の自分の現象をメモしながら書いていること自体が、また別の空間で起きている事の説明と重なっている”比喩”と思いながら、同時にそれらを感じて書いているのだけど。

ソレという事を何かしながら、いつも別の、内側で起きている”現象”をそこに視て拾う。そして大体この内側の何かを拾えた時、この日常で飽きずに行い続けた動作は自然と離れて(止めて)行くと思う。


その、内側の仕組みを拾うという気づきもなく、その動作から離れることも勿論多くあると思うのだけど、そいう感覚としては自分では想像もつかずに”分からない”ものは、ただもう「十分に満たされた・飽きた」という様な掴める部分の表現になるのかもしれない。

言葉は、内側で拾っている感覚の全てを現わせない事に間違いはない。


いつになくミックスリスト内の数曲だけを何度も聞き続けているまだ初めの頃に、「この”音楽”によって、自分を起している」というザックリとはそういう表現ができる状態だと感じていた。

何か特定の”曲”というより、そこに感じ続けるやっぱりリズム、それを浴びたいというものが内側にあると想像していた。

そしてそこに、ただリズムを欲しているだけでなく、元々から関心の強い「言葉」という存在、その歌詞がまた耳心地よく、更に目で見る映像は何度見てもかっこよく…、自分の色んな感覚へ刺激があることを思った。


情報的には”古い”。新しい曲でなく、もう既に何年も前の、しかも当時に興味を持っていた訳でもない”ただ知っている”というその存在が、今の自分にとっては新鮮なのか、それとも昔をそれによって思い出すのか、よく分からないけれど、とにかく心地が良いことは確かだった。

自分が好きとか嫌いとかその様な自覚のないものでも、十分に”知っている”程度のものでも自分に影響を与えると思った。逆から言えば、この頭の自分が当時は気づかなかっただけで、身体には刻んだ記憶があったと、こちらが隠れていたものだと思っている。

自覚側の”気づき”に上がる。

意識していなかったものが、この目の前に現れて目に映るようになる。そのお蔭で、陰にあったそこと結べる情報たちと、その辺りすべてが何か、”心地良い”を思わせてくれる、そんな風に思った。


初めからこんな詳細までを感じてはいない。だけど自分の動作によって得られるそれに、自分が快適を感じる循環。自分はその事を目的としていなくても、自らの動作によって何かが心地良いのならば、まずは意味も分からずに十分に浴びても良いのだろうと思っている。それが”リフレッシュ”という感覚でもあると思う。

今まで自覚もなく「感じなかったものを(何か)感じる」ということ自体が、脳への十分な刺激の結果だと思う。

忘れていた「音」を聴き、それらを拾うことで、ソコにあるエネルギーを自分の中から集めている、と言えると私は思っている。

・・・ ・・・ ・・・

人は気づいていないだけで、無数に自分と何かを区切り、その窮屈な世界の中で自らを雁字搦めにしている。

区切らなくていい所でしっかりと区切り、その時”所有”の意識は必然と立ち上がり、モノはそこから見るようになる。

この”現実世界”という場所は、「区切った世界」という事を広げて書こうと思ったままここまで数日来てしまった。だからそんなに文字にする事でもないんだろう(笑)


私はいつも例えばメモしたことをそのまま載せて、これは別途広げて書く、という予定を立てる…、そうしたいと思うからその予告をするのだけど。だけどそのタイミングというのは、どうも本当に強烈な影響力があって、そこが合っていないと、自分の単に「それを書く」という様なそれさえも書けない事を思うと、脳のハタラキの強さというその存在をとても強く感じたりする。

だけどまたこうして書き出して思っていたのは、「自分の思う”書く”スタイルがなされなかっただけで、これがまた違うカタチでサラ~っと表に出て行ってるんだよね」というこの感触は本当だと思う。

自分の思いとは別の「やり方」が、脳内には存在している事は、確かだと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!