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”区別”が繋がれたカタチ

かつてのモノサシがこれで活きてくる―――交換
”同じ”にするまでの道のりは遠い(笑)

先日のメモで、「等価、”同じ”にならないと分からない」とだけしていて、これは主人の何かのようすから一瞬頭に描かれた時の「答え」のみで、それから詳細を引き出すことは出来ないで放置していた。

メモを何度か目にしても脳内に広がりは出ず、”まぁいい…”という所からの昨日noteの終盤。「交換」という言葉がでてきて漸く少し近づいた…といってもその時頭に浮かんだそれは霞ががったその中のままで、その近辺から吸い上げられた事などから、ここと紐づいた。

これは一昨日の晩に「あー、そうか」と落ちた事の一つで、まずこれを少し片づけたい。分かるために分けて…そしてまた繋がれる。

今までの長い期間の流れとしては、「自分と他者のモノサシは別個のもので、皆各々のものを持っている…だから自分の目線で他者の何かを当てはめては間違える」的な内容・流れになっていた。世の中で言われている事もまたその様なものはある。

”自分がそうであるなら、他者においてもそうなのだ”という、それ別個の世界においてが等しく「そういう事だ」という表現は何度もしてきているのだけども、ここでの肚落ちは、そこじゃなかった。


以前の流れとして持っていた”自他のモノサシは別もの”という説明が必要だった「その状態になる前提」を、ここで”活きる”カタチで使えるということ。”そういう前提があるからこうなっているよね”という所から解していく作業が長く続いているわけで、実際にそれを行うことで、自分/他者という存在は別のものだという認識、意識が出来るようになる。これは自分の中にその意識・認識を作るために必要な道のりで、それを経過してここへ来る…。

人の持つ目線はどうしてもこの”自分目線(モノサシ)”で外の物事を測ってしまい他者のそれを無意識に無視するそれを少し矯正していくような作業だったわけだね。


そしてその区別が明確になってくると、自分の中に作り上げてきた新しい意識部分によって、(イメージの表現でしかできないけども)自分と他者の認識の割合が「=」という繋ぎになされるという※

そしてこの新たに認識された(作り上げた)ものの実践がここから積まれていくことになる、実際の血肉にしていく所へ移っていく。そんな流れに感じた。

古い、過去の自分にあったモノサシは、矯正によってないものにされたのではなく、きちんと別の色を付けて再び使える…そういう場面が作り出されるという事と思う。

「自他のモノサシは別」という事に対して私はまったく何も意識していなかった事なのだけども、こんな形でひょいと自分に上がってきたので、「あー、そうか…」と落ちていった。

これがやっぱりその少し前に書いたlivedoorブログの「ネガティヴ」がもの凄く効いているのだと痛感している。

※”自他の認識割合が=に”という表現は、私と主人の普段の言動を通してそう感じたもので、ここに幾らかの”釣り合い”を観れたからそう感じて表現した。「同じにならないと分からない」というメモは、互いの言動を通してそれを同じように”置き換えること”が容易なものだったから。

なので、この置き換えが中々他者との間に見つからなければこの解釈は「?」となるのだけども、見つけにくいだけで考え方は同じなので、通用するもの。(周辺へ繋がる話なのでまた別で)

・・・ ・・・ ・・・

手元の溜まった数冊のノートを片付けるため内容のチェック。残っているものの要不要を見ていく。その中でとても短い、ひと言ふた言の走り書きの”反面”が視えていた。

その書いた時の私で捉え、その状態を浮かべ、異なる色相をつかむ。なんてことはない事なんだけど、人の頭のつなげ方で、解釈はまったく違う世界になる事を、改めてみていた。

すでに、つねに、いつも。気づかぬうちに世界は始まっていて、それはある場所からでは全く見えていないだけ。だけど”始まり”はいつもそこかしこに存在していて、世間に上がる前の、一部のほんの小さな世界はポコポコあちこちにあるんだろうな…と思った。

時系列
このメモはネガ(ティヴ)に触れた後のもので、頭はそこに結ばれている。何かにフォーカスした時、必ず尾を引き話題はまったく異なっていても、その背後にはしっかりと流れている事を、自分の中に観ることは出来る。

”またここか”というその使ったばかりの表現が候補に上がるから。それに絡んだ周辺の表現を、こちらに寄越される。だからその様に感じている。

(さらに昨日noteを書き終えてのメモは…)

読んで確認していると―――
”記憶から引っ張っていた内容じゃない”ことが分かる。読んでチェックしている時は、”読み取りアタマ”になっていて、この時は「”ここ”はあの事を言ってる(だけじゃん)」と思っている(気づいている)。

頭の中にある既存の知識・情報、これらはやはり出・入の切替えがなされていること、それによって「(そんな事は既に)知っていたよね」ということもある。出力アタマは普段の回路は”閉ざされ”、「湧き出し」から完全に引っ張っていた。

・・・

内容的には以前にも何度か触れている「出力/入力」のことで、書くという出力時と、読むという入力時のそれぞれの頭では、全く働きが異なるというもの。脳の機能的にここ・そこが活発になるという区分があるのはその通りだけども。

わざわざメモするほどの静かな驚きが、自分の中に生まれるから「分かった」こととして書き留めるわけで、知識として”知っている”ことと、内からの行い(出力)として実行していることその時点では、「瞬間にも繋がれていない」という表現を選ぶくらい”別もの”として私に捉えられている。

ほんの少しのタイミングがズレることでしか自らの「出力・入力」の照合はなされない、という所にやはり行きつく。

そんな流れがあっての昨朝のたくさんの肚落ちの一つがこれだった…

⦅あ~、そうか~…、出力時は無意識だ、入力時は意識の範囲だ…⦆

”それぞれ”という状態は、結ばれていないバラバラな状態で頭の中にあり、それは”結んで”いかないと、それぞれのままなのかもしれない。だから何かの時にその「両輪」が揃ってズンと肚に落ちてくる。

例えば、こっちの岸とあちらの岸にあるものが、どこかで紐づく。どこまで行っても”対”になるものが存在していて、照らし合わせて一つになって行く。

(続き・関連はまた明日)


「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!