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そう思える力がある事

では、”更に広がっていた、そうだったなぁ…”、を書いていきます。

5/31メモ

(改めて)思うのは。

「今はそういう時代じゃない」というものに対して、そうかもしれないけど、『(他人に)押し付けなければいいじゃない?』という考えをしている。

それが、その時代にとって「新しく」感じることもある。

時代に引っ張ってもらって作られる変化もあるし。

とにかく、ずっと”同じ”でなく、変化は必要であること。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

「時代」という大きなモノで考えなくてもいいと思うのだけども。私の中からはその様に上がって来た。

そして、そうメモした理由は以下に。

今日までの「自分」というのは自らの体験・経験からだけで成り立つものでなく、背景が多く絡んでいる。そしてこの『背景』が非常に大きく強く、自分側へ影響している事は、今までに色んなカタチで発信していると思うのだけども。


こんなに影響が大きいのに、私たちはソレを、アタマの表面で捉える事は出来ても、実際の自分にどれ程の影響がもたらされているかという事には、中々気づけない。だから無意識にその言動をするのだけども。

そこを、出来る限り、限りなくクリーニングできるコト(モノ)はその様にしていく…、これが出来る所までが世の”ノウハウ”の通用する領域。深さでもいい。

だから、それを行う事はムダではない。そうして削いで削いでやっと”自分らしいもの”が見えてくる様に思うから。そうしないと表側で知った”理屈”をやった所で、”自分らしさ”はきっと見えてこないから。


数年かけたね、ここまで。そうしてやっぱり顕れてくる「自分」。初めてじゃない会った事のある自分。

『やっぱり”私”はこうなんだ』

自分を冷静に見つける瞬間だと思う。

小手先は捨てられても、ここまでを創った自分はしっかりとこの中に存在していて、その存在を支配している背後は、その中を生きてきた時代、世界でもあって。

その過去を否定する必要もないし、それだから生きていけない訳でもないし。明らかにできた事、だと思った。

・・・いつだったかふと、思った事がある・・・

色々な事にポツポツと気づきが得られていって。「あー…」ってなったり、「なるほど!」ってなったりして。

それって、その度『自分を知るという行いになっているんだ』と思った。せいぜい、その程度しか出来ないんだ、と思った。

大分前の事で、詳細は憶えていないしメモもしなかった時の事だけども。でもそう”ふと”思ったんだから、きっとそうなんだろうな、と心に残している。


少しまとめに入っていくと。

個性というのは、その生まれた背景までもを含んでいるもので、時代が変わってコロコロと変わる様なものはそもそも”個性“なんかではなくて。

皆が一度に同じように生まれた訳ではないのだから、バラバラになっていくのは当然の事で。ただ「時代」という言葉を使うなら、テクノロジ―含めどんどん進化していく流れは実際に強く意識され、それは時代のオモテを流れるものだから非常に強く、眩しくも見えたりして。

だからそれはそれとしてその中を生きていくのは自然な事なのだけども、個性の周りを纏うモノではなくて、この”身側”で扱っていくに過ぎないモノコトなはず。


その”進化”に呑まれるようになってしまう程、人という「側」は弱くなってしまったのか、進化が人を弱くするのかは、どちらもきっとある事で。時代の中心を生きていく生き方があって良いし、その脇や地面寄りを生きていたって良い。

そんな事を感じた時に、今年らしさが視えたという思いがあった。今年らしい”混合”なんだとつくづく感じた。

ガンバっても良いとか、昔の自分でも良い、とか過去の自分を再び受容れて行く時。そう思えるようになってやっと本来の「力」が、戻ってきているのだと思う。


本来、力は持っている。

だけど、生きる中で色々と自ら”発揮”が出来ないような状態になる。それは自らがかけてしまった”足枷”、そんな事なんだろうと思う。理屈が解っても、それがどれなのかを探す事に時間はかかるのだと思う、見えるものより見えない所のソレは強いから。

いや、言い方を変えると、力は戻るのではなく、足枷を外せば真っすぐに飛び出してくるのが力なんだと感じている。

更に。過去の重量を持っていてもその時々の選択は軽やかにできる、というのが、風の様な自由な時代・多様性、と言うんじゃないかと私は感じている。


明日は”主人の変化”へ移っていきます。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!