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何が自分を支えているだろう

主人が月曜の晩に言っていた「アンチヒーローが終わった」話。

例の、「終わってしまうのがイヤだから見ないでいつまで放置しようかな…」というポストのことがその後にふと浮かんでいた。

⦅全部自分の中のデキゴトを、”どの様に処理するか”だけの話をしている…。”現状”は既に終わっていて、「自分の中」だけの整理のつけ方だ…おもしろい⦆

そんな所から入った。

そしてそこから私が考える―――

⦅”自分の中”だけのことだから、ソレによってこの自分を保っているんだ。「まだ終わっていない」という楽しみを自分に確保して支えてる。それを見なければ、ずっとその楽しみは持っていられるからだ…⦆

そんな事を思い、主人に訊いてみた。

『ねぇ、さっきの話、”放置”する話、自分ではただ「終わっちゃうのがイヤだから」としか思ってない?(それ以外に気づいてない?)』

「・・・うん…」

『その状態を持って自分を支えてるね。終わらせなければ、自分が放置してそれを見ない限りは、終わることはないんだから(*^^*)』

「…あ~、それはそうかも。”ワクワクした気持ち”がなくならないように”持ってる”っていうのは(笑)」


人って凄いと思った。
自分の中にちゃんと「自身が快適な状態で保たれるように」工夫していると思った。現実という現場はその時一切関係なく、”自分自身”がそれを使って自分の中の”喜びの空間”を保っていると思った。

「ある」ということに対して安心していられる自分があると無意識にでも分かっているから、”ある”状態を置いておく。会話の初めには「おもしろい事をするな…まったく」と思って聞いていたものだったけれど、主人には確かな理由があって、それがとても重要な役割で主人を支えていた。

「また次のドラマが始まるわけだし、見れば同じことなんだけどね…(笑)」

久々にドラマを録って見ていたそれは、主人にとっては余計に自分の中の”楽しみ”を膨らませるものだったのかもしれない。次にやるドラマを見たいと思うかどうかは約束されていないから。

これに限らず、”モノはいつでも入ってくる”という私の前提と主人のそれは同じになることはないかもしれない。でもそれによって自分が膨らむならとてもいい事だと思った。


それらの事を考えた時、人は「想い」をうまく使って、殆どはつまらない多くの時間を少しでも楽しく、ワクワクした快適な気持ちで自分を引っ張る事が可能だと思った。

それは今までの主人の中に、既にたくさんの解してきたものがあるからそいう部分が見えやすくなっているという事はあるのだけど、氣の持ち方・使い方(整理の仕方)によって自分がよい状態に保たれるならば、こんなに気持ちの良いことはないと思う。

その状態を、「自分をコントロールしている」という表現がつく。

会話をして主人の中に”解釈”が入っていった。まだ”気づき”も弱いかもしれない。だけど、自分の機嫌をとるというのは、こんな普段の何てことない小さな事からの積み上げだと感じた。

・・・ ・・・ ・・・

「自分」というこの存在を自分が知るための情報として「自分にカタチ」を作り、その情報内だから、これは自分で”私”であると理解できる安心のカタチ。

勝手に自分のカタチにしてしまった事がまず多いこと、どうしようもなく受けてしまった影響からカタチの中にあるもの、色々。本意だろうとそうでなかろうと、カタチを持っている。

安心安全の場としての内側なんだけど、この結びに雁字搦めになってしまうと外との世界は”窮屈”に感じる。それが本当にそうかもしれないし、逆に自分のカタチの窮屈によって起きているのかもしれないし両方ある。


自分の中に取り込む時、理解するには自分の中の何かと結んで呑み込んで行く記憶。その色々なものとの、多くの結びつきだらけで自分の中の風通しが悪くなっていることもある。それは自分の習慣・パターン化した日常に組み込まれ動作と一体になり、そうしている事に疑問も持たなくなったりもする。

先日。
主人は枕の下に置いている浄化用の塩を「もういいや」と言ってきた。

「これで何か起きたらまた考えるかも…(笑)」

『そんなことないよ(笑)もし何か出来事があっても、今のあなたならもうそういう事と結びつけたりしないよ』

何年も続けていた”安心”のための儀式だった。そうする事で自分が安心するならそれでもいいのだと思う。だけど何かをきっかけに、またきっかけなどなくただ「なんでこれをやっているんだろ?」という思いになる時がある。


私は子供のころから、時にはやらなくなった時期も含めて、寝る前の合掌・祈り(子どもの頃は反省)は結局続いている。

ただ、”やらなくちゃ”という気持ちはまったくないし、反省もないし殆ど祈りもない。一日頑張って過ごした自分と世界へのお礼がほとんど。

私の中で行いの意味が消えたその時は、「もうこれもいいかな…」という思いだったかは既に忘れたけれど、要は主人と同じと思う。それが私を支えている訳じゃなくなる時、その結びから自然と解放されるのだと思う。

朝夕の緑へ向ける少しの時間、「家(部屋)」に対しての挨拶、決まってこなす鏡の前での挨拶など、私の持っている”儀式”はいくつもある。それぞれはみんなほんの少しの時間のこと。

これはしなければならないのではなく、これに支えられている訳でもなく、”この時”にはそこに意識を向けることが出来るので、その様にしている。

この自分から何かが手放されても何も起きない、「その事とこれとは関係がない」と分かる自分は、少しずつ創られるのだと思う。

・・・

書き終えてから…

人が”ワクワクした気持ち”でいたいと思うことは、本当にそうだろうと思っているのだけど、私の中では少し詰まる”何か”を感じていた…視えてくる前提。喜ぶ自分のためにその氣を抱えていなければならないとしたら。

「いつでも自分が切り替えるだけなのだ」と込み上げてくる想いに、私の中で少し悲しい気持ちになった。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!