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私だったり、なかったり。

【*全て”私”に繋がっているものという―――】

これは、「”何かの為”というのは、結局は”自分の為”」という考え方に少し変化がついてきたのを感じて書いたもの。”他者の為”という事の殆どは、「自分自身の為」という事は今でも否定はしない考えを私は持っている。

その中で、主人との”人間関係”を観ている事から感じる、自分の中の変化から、「繋がっている訳じゃないソレゾレ」というものをそこに感じた。

更にそれがつまり、「交換可能」という考えにする事ができる、という風に感じて、私は私、あなたはあなたというそれぞれの上で”交換”する事が可能な様に感じたものだから。

連なりの「ひとつ」という考えから、各々という個々に分かれたことを表現したものだった。

(↑ここまで下書きのもの)
(↓その時のメモ)

私自身が当たり前に、損得で考えていた事が分かった。
その選択を普通に、無意識でやる時は、その選択自体に何の違和感も感じず。

文字通りの当たり前でやっていたのだけども。

その”考えの元”となる背景が消失した時、この考えも消えていく。

「損得か…。今はそれが”自分のやりたい事か否か”でみるから、”やめた”が出てくるんだよな」

当たり前の考えの前に、それを支える背景があると知る。その背景があるうちは、考えはそこから流れる、選択は変わらない。この背景が壊れたきっかけ、理由は、今の時点では(自分で)分からない。この”背景”とは、「(脳内で)そう結ばれる事が自然であった”塊”」というところか。


ただ、何かを”やめよう”と思ったことを、ふと顧みた時、普通に前述の「」がみえた。何か、普段に感じることもないその背景が、客観できる距離ができた時にその残像がよく見えると思う。

ガッツリ損得で考える自分がいたことを知る。

そしてこの内容自体もきっと、昔の状態でやるならば、「恥ずかしいこと」と躊躇もあったと思うけれど、現在においてはただの客観、表現。恥ずかしくもなく観察の対象となっている。

・・・ ・・・ ・・・

「いくら体裁よく何かを言ったって、結局は自分の為にやってるんだよな」

というのが私の考え方だったし、そういう在り方になるのは人間として当然だろう、という様に考えてきた。今でも、その在り方を否定するつもりもないし、この先も何か”その時”でないと、実際には分からないものとも思う。

そして、そういう段階では「そうであって良い」と、以前にも書いていると思うのだけど、私自身が”私”を観るに、少し他人事として見れるということが、その事からズレてきたという事なんだろうと思っている。

この「損得」という考え自体も実際にはかなり”怪しいもの”と思っていて、自分がそれが良いと思ったものは損しても良いわけで、そうでないものに対してはイヤなわけで。その程度の”損得”でしかない。

結局自分の価値観は捨てられないし、それによる自分の中の”優劣”となるその時の優先順位は、自然とついてしまうもの。そんな中で、どこまでを世界という自分以外と重ね合わせられるか、ということになるのだけども。

これは、”自分”のままで世界に重ねることなど相当に難しい芸当で、自分という小さな自分の存在が”拡大”する事で”自然な重なり”が増えてくる、というものだと思っている。

その様な緩やかな流れがあって、その割合が自然と変化して行くことの結果に、”私”という存在がしっかりとあるのだけど消えているような…、そんな存在の仕方なんだろうとまずは感じる。

以前と似たような表現が、あちこちに出ているので、自分でも「言ってる事が同じで、わざわざ改めて書く必要もない」と突っ込むのだけども、確かに確実に自分の中では”違って”いて、それをきちんと現したい、という事によるものだろうと思う。


と、ここ迄また書いて中断して(笑)
後にその事(上記した事)を思い出してまたメモして…。

「違う、”純粋にそれがしたい事”になったんだ。”考え”をつけることなく」。”したい事”の周りに数々のあれこれも引っ付けて「やる」という行いをしていた所を、余計なあれこれが消えてシンプルに「やりたい・やりたくない」というものになったんだと、ある事をイメージした時に感じた。

それは、こうして書いたからと言って全てにその様になって行く訳ではなく、恐らくまだ何かを引っ付けるケースもあると思う。それがくり返されて大体のことに「やりたいか否か」という純粋な形で選択するようになるのだと思っている。そうしてその在り方がそもそも、”極力シンプルなもの”という表現になるのだろうと思った。


”脳の状態”によって、行う動作は同じでも、処理のされ方がまったく違うと思った―――。

軽く夕寝した起きがけのこと。ニコルのちょろちょろ動く音が届き出して、意識は上がって来ていた。

頭で勝手に流れる文章。
すごいかっこいい…。

「私の感じじゃない」とすぐ分かる。
誰?じゃぁ誰だ。

その雰囲気を感じる。その時思う。
「こんなに簡単に入ってしまう。自分にこんなに簡単に他者が入れる…」そう思った。


起きてからのlineメモの一部だけども、詳細の話はコトがある程度終わってから書きたいと思っているので、それまで触れないけれど、この「自分の頭」とは、ちっとも”自分”なんかじゃない様にも思える話。

それはやはり、器官・機能としてのハタラキを提供しているに過ぎなくて、”私”という存在に思わされるその”情報という記憶”によって、この身体=私、と結びつけているだけとも。

この起きがけの時、この状態でも”私と違う感じ”というのは、明らかに
分かっていたので、かなり頭は起きている…、

だがしかーし!

憶えているつもりもまったくなく、頭の中にスラスラ出てきた、この”すっごいかっこいい文章”は、夢のように消えてなくなった(笑)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!