見出し画像

言葉と言う不足

《少し別の見方を書くと、始めから「全体」を考えるような世界が”社会”という場所で、その時は自分云々ではなく、そこでのルールを守り、意識せずとも「私」は引っ込んでいる訳で、無意識に個と一体は切り替えられている。》

・・・

と、一応書き上げたのだけども、最後の《》は読み返していて、やはり潜むマジック!と感じた。

”始めから「全体」を考える―――”と書きながら、”「私」は引っ込んでいる…”と続く。それはこの文章から抜けて空間に飛び出せば、既に先に「私」は存在している訳で、この中で「私」は先にある訳で。

結局、文字ではある一部分のことしか表現はできていなくて、切り取った部分のみ強いフォーカスになる。”一つながり”と言う全体に戻ったり、個にしてみたり。

~~~~~~~

↑↑それが、ここから流れていた最後の一部を削っていたものなのだけど。

それを読み返した時に、上記内容の通り、文章的に”おかしいな”と感じて少し笑えたのだけども。

そう考えると、後先でなく”一緒に”という事を少し感じ始めるわけで…。

9/23ラインメモ

大分、隣接してきたかな…?
自分より先に他者が認識されると書いた。そして後々にやっと自分を認識し始めると。自分を表すそれは、周りが表されることで現わしているとも。

これが即ち、「自分の輪郭」だよね。

他者を見れば見るほどに認識される他者、即ち”自分”。認識上で区切っているだけの境界、そこに確実に隣接する自分。


カタチはその時々で、人(他者)によって変わる。それが変幻自在の自分の姿だね。

他者を見て自分を知るという知識レベルから、カタチとして捉えだし、「あ~、そうだなぁ」と。

・・・

このメモの内容自体も、言葉として書く説明は、今までともあまり変わらない様な”説明”をしていると、読み返せば自分でも思っているのだけども。

「あ~、そうだなぁ」というこの実感が一番大切なのかもしれないけども。

それは、湧くままに書くことが出来た文章があって、その後にその、書いた内容が「創られた様な”映像”」を感じて。その映像を頭の中に視た時に、「あ~…」としみじみしている訳で。言葉よりは、より鮮明に視える(感じる)ことから来るものと思うのだけども。


今まで、言葉によって少し分断されて頭の中で理解されていたモノが、そのモノの隙間が埋まって(詰まってきて)、以前よりは滑らかな映像(シームレス)になる事でより、自分への理解が深まる様な行いが、そこに成されている様にも感じた。

もちろん、この”理解”は、たった今ここで、ここ迄書いてきた事を脳内に再生させることで再びこうして「言葉として外に現した」という事になってしまうのだけども。

それを、外から見た場合(読んだ場合)、頭の中で一旦その様なことが起きているかなんて事は見えない(分からない)わけなので、当然ながら「(多くは)文字の解釈でしか繋げることしかできない」という事になるのが、通常なのだと思う。


既に睡魔に襲われている状態で書いているので、もう少し頭の起きた状態で後日またこの近辺の話に触れると思うけども、実際の脳内での”できごと”は、当然、目に出来ないので、言葉で現わし切ることはできずに通常に於いては”不足”の状態になる。

表側のやり取りだけでは、完璧には成立しないという事は、ここからも言えるように思う。(焦点定まらず、既にのっぺりした話になっている(笑))


9/22メモ

”自ら”が、自らの力(存在)のままで感じること、を主としそれによって自らを支えることが大切(と思っている)。

だけど、この自らという存在すら、個の存在だけでは自らを知ることもなく、外のカタチを見て自らの隣接するカタチを知る。

そのカタチが、「自分」と分かる。

・・・

通常は、それで良いのだよな…。

最後に、昨日の主人との会話中の一部を書いて今日は終わります。


「みかが、”よく知ってるね?”とか言うけどさ、オレはただ、自分がそう感じている事を話しているだけで、それをみかがそういう風に言うだけだから…」

詳細は、後日書くとして、つくづく「似ているな」と私は思った。

そういう事の”擦り合わせ”は、2人の間においてなされていない。それぞれの関心の向け先は全く違うこと、主人はこれと言って内観的なことを意識的にはやっていないこと。そして勿論、いつもの様に主人は私の発信関係のものを一切知らない(読まない)ということ。

それでも私の中で感じた「やっぱり、こういう事が言えそうかな…」という事に関しては改めて書きたいと思います。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!