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一瞬一瞬を担当する”自分”

昔はさ、

「思考と感情を分ける」なんて事の実践を、しっかり確実に”頭で考えて”選り分けていた…、「○○しているからこれは思考か」はかね。

今は、アレコレ考える前の、それに入る前の”ほんのちょっと前”の所で「こう思ったよね?」というものを自分の中に掴む。それが”感情”なんだけど。

そしてそれはやはり、思っているその”時点”じゃなくて、思考に入って行く時に「その前に感じたものがあった」という事をみて「分かって」いる。

ズレてそのコトが判明する。

ズレなければ何も自分では分からない…、ズレなければ、ズレなければ…(連呼し過ぎ(笑))


色々を”対象”にしているからだよね…。

Y(主人)に「こういう事だよね」というのが、不適当なものもあったと、ふと過去を観て思った。

そんな事を言わなくても良かったと感じたから。

その時は結局、私自身のスキルが足りず、「自らそれをやったら?」という静かな誘導をしているのだけど、今思うと随分とお粗末だったと思う。

(このメモの後に動画を目にする)

違う側、場所、特に反対に見える所じゃないと、今までのその場のことは、やっぱり本当に分からない。

”こちら側”の中の精一杯で全体を考えている(いた)ことが非常によく分かる。確かにそのヘリまで行って、ついには壊れる、拡がる、一体となる。


「だってそれはさぁ…、ズルい考え方だよ」
『笑、難しいよね、簡単に説明してるけど(^-^;』
「難しいってもんじゃないよ(苦笑」

主人の言っていることがよく分かった。

私もソコに居ればそう思っていたと、容易に想像ができたから。事実、そういう感想を持っただろうという確信もあった。そういう”見覚え”があるからだ。

『でも…。できるんだけどさ(笑』

言葉で説明されている内容は、初めて聞いても理解に易く。途中から耳にした主人でもそう回答したわけだから。だけどこの内容はまったく「深く」。非常に高度だろうと感じた―――。


違う見方で言うと。

言葉で細かに説明されていることは、「その中」の目線で言っているという事。勿論、その世界があっていい。

ただ、見えない「意識」という世界を活用する時、この言葉はあまり細かい必要がない。それは、必要ない部分を活性化させてしまうので、逆に妨げになる。(だから動画の解説は十分だった)

意識を活用していくという事は、「言語の使い方を学ぶ」ことでもあると思った。

(11/21メモより)

・・・

事象は違うのだけど、丁度そんな事を確認できていた。とても分かりやすく、私自身が様々なモノコトを見せられていたものだから、主人の言っていることと重ねて”観る”ことができていた。

私が思うには、「その時」というのは、しっかり”ヘリ”まで目一杯行き切ること、と思っている。そうしないと「そこから」ひっくり返らない。

そして私の場合、メモという形で「その時のこと」を記録(残して)いるから、後で読めば「違かったな…」という印象を生む事にもなるのだけども、違うんじゃないんだよね、今とその時は当然違うから「違う」という意味で”違う”は合っているけども、そうじゃない。

立ち位置(層が違うとも)が変わってしえば、見え方が変わって当然で、それを言語にしているのだから、その時と比較をしてしまえば当然「違う」となるのだけど。

ここの「違う」の意味、内容自体が違っている、ということ。


何かが「合っている」という前提になっている”違う”と、観えたものが違うのだから率直に”違う”のと。見え方が変わる一番簡単な例は「位置の変化」なわけで、この身体はいつもと変わらないとなれば、それを処理する脳内の見え方(処理の仕方)という事になる。

過去の情報、(今までの)当然の結びつきという塊=記憶から見せられていた目の前のものが、結び直し・新しい結びつきによって外を「観る」ことになれば、今までの世界でさえ見えているものが明らかに変わってしまう。

だから、過去の様々な自分の”出力”を、間違いと思う必要がないし、今とは違うという事だけ。


『”その時の自分”が、精一杯に考えて出した答え(選択)だから。今見ると”アチャ~”かもしれないけど、それは今が成長したという事だよね』

時に、コトによっては、自分の行いを責めたくなるような状態もあるかもしれないけども、大原則はそのスタンスでいい。どう考えたって、当時の自分は目一杯に、精一杯に考えてそうしたのだから。

・・・ ・・・ ・・・

昔の私は、上記の様な詳細な説明やここまで理解していた訳ではないけども、「古い自分を責める必要がない」という視線は変わっていなくて、”現在の自分が成長した証”と思っていた。

”位置”が違うと、説明する言葉、表現などに変化が出るため、まったく同じ説明にはならないけども、でもやっぱり「人は知っているよなぁ…」と再び思う。

それだけ人間の「感覚」というものは採用して良いのだと思う。間違えや修正は都度行い、更新していけば良いのだから。

ましてや…。

十分に考えたって間違えるのが人なのだから、”いいんじゃね?”って事で(笑)


上記の内容に絡んだメモを少し。
これがこの時に「目一杯の考え、気づき」だったのだから。”小さな自分”が可愛く見えるではないか(苦笑


10/31メモ

「主」というのは。

主という言葉、意味を持たせられていながら、まったくその実、中身のないこと。

私達が「何かをしたい」という本能からの欲望を満たす時、意外にもソレというものをそのままに行う事がない様に、自らその”主”に当たる部分を分かっていないもの、だから。

内側から飛び出してくることは、それだけ様々な障壁を突き抜けて、”外側”へ出てこなければならないのだと思う。

「ヒョーゲンさせること」
というのは、人によっては結構かなり難しい事なんだと思う。


分離されない一体(全体)、その一部でいることの安心、後に生まれる優位性の獲得と。その過程⇔が何度もくり返す「苦しさ」の経験として記憶、そこに留まる。

”優位性”獲得を放棄した訳じゃないから、フツフツと何かは燻る。

「”違う”という事を求める(望む)」というのは、そこという全体と分離して”自分を”存在させたい深い欲求。まず自分が自分の誕生を待ち望んでいる。

それを素直に態度に表しているのが、子供の頃の動作。

私と主人の選択は違えど、”それ”と分かるエピソードを・・・とメモは続くのだけど(ちょっと長かった笑)、それは明日へ(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!