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”書く”という事で、

今日は簡単に、大分前のメモをベースに簡単にツラツラしていきます。


自分がどういう事を解っているか、状態を見つける事ができる。確かめられる。(あくまでも私のケースの話)

自分の拘るスタンスがあるので、基本的にはそれを崩さない。それを崩している時、自分の「異変」を感じる。やけに時間がかかるとか、まとまっているようでなんか・・・という感じに。


・何で説明しようとしてる?➡「あー、なんか言い訳したいのね」

書きながら自分の心も確かめられる。あまりこういう事は自覚的にはないけども、だからこそ「ある」時に目立ってくる。


・表現したいなら”表現”すれば良いだけで、理解を求める必要もなく、ただ自分のスタンスを決める。確かめる事ができる。

蛇足が付く程に周りを意識した言葉、という事が自分で判る。書きながら自分の内部を整理、観る事が可能。


昔は、誤解される事が嫌だった。

正しく理解されるなら仮に「お前、クソだな」と言われた方が「その通り」だから、喜びに近いものもあった。誤解されたくない、何かうまい事伝えたい、となると「説明(言い訳)」を入れたくなっている自分がいるんだろうと思っている。

”良く”見られたいのでなく、自身を”正しく”見られたい、という事だった。

・・・今ならそれは「相手の思う事」と、以前よりもう少し距離を作れている、かもしれない。

それこそ、何度かの「切り換え」で、『理解されるより”自分のスタンス”でしょ?』『その解釈は”相手”の事でしょ?』、そして、『そうかどうかも自分が思っただけで何も分かんないでしょ?』と、質問は色々できるし、自分に対し「アホ、いつまでやってんだ」で終える事もできる。


自分が「どういうカタチでキャッチしようか」それを決める事で、相手のカタも自ずと決めてしまう。それを無意識に行ってしまうから自分のフィルターを通した観方になりやすい。

そう言う事を色々考えながら、繋がっているように感じてしまうこの”仮想空間”を勉強のように覗く。

(他)人の自由な世界を覗かせてもらうと、自分が同じ世界じゃなくてもやっぱり楽しく、皆がバラけるからこそ人間と言える、と、自分の頭だけでは考えられなかった、見られなかった世界を見られる事が楽しい。

(そういう時ばかりじゃないかもしれないけれど(*^^*))

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性善・性悪と説があるけども。(詳細すら知らないが…)

このどちらかを選ぶのだとしたら私は「性善説」を選ぶかな。

あくまでも”後付け”の選択。自分の考え方・スタンスを観ると、何を教育された訳じゃないのに、その在り方をするから。単純に理由はそれだけ。

私が散々「やろうとしなくていい」とか、「ニンゲンのする事なんてちっぽけ」的な発言等をしてきているのは、「魂は腐っていない」と、感じるから。

今では”魂”という言葉さえも「この言葉でいいのか?」と疑問も持つけども、感覚的にその様に思っているから、人間としての行いは「表面的なもの」として考えている。

私の中には「そう信じたい」というものが、漠然とあるからなのかもしれない。私はそう解釈している。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!