リアルが幻想のようだった
すべて、「私目線」という事のままメモを元に書いていきます。
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買い物の気づき・・・、最高にいっぱいあった。
ホームセンターのアプリが変わっていて、レジで驚く。出したい”会員証”が「大体のこの辺りから…」入っても見当たらない…。ならば、よくある「後でレシート持参で」という形が可能か?と思い作業中の店員に聞くも「ダメ」という。
『えっ、これはどこにあるの?』
「ここ」
『ぁ~(こんな所?!)』
右下の隅っこに小さく”会員証”と表示があった。「今まで正面の一番目につく上部にすでに表示された状態で、今度これ?店舗情報、宣伝なんかこんなに画面いっぱい要らないよ」と思った。
若い男性店員の態度にもやはり驚く。この事に関してはいつも最近、いやもう何年も私の中で感じている事が同じなので、「違うこと」を自分の中に見つけた。「こういう対応が今の世の中なんだ…」。
世界(世間)は、今まで私が過ごしてきた世界と、まったく変わってしまっている。これは何度も私の中で相違を拾っているから間違いのない事。「今の世の中なんだ」、私の中のカタマリが崩れる―――、向こうからすれば、操作を知らないオバさんだろう。
精算が終わり、カウンターへ移動すると、壁に「アプリが新しく変わりました!」みたいに明るく話しかけてくる(ように)ポスターが貼ってあった。右下の表示部分が円で囲まれていた。
⦅これを見てからなら分かったね…、って来るたび壁の掲示物確認する人なんかいないよ(笑)⦆
と思いながら荷物を入れて行く。
一旦車に荷物を置きに行き、次は隣接のスーパーへ行く所でその事を思い出していた。
⦅なんか、ほんとに色々、あちこち変わっちゃってすごいなぁ…⦆
私はアプリとかスマホ操作にほとんど興味はなくて、普段から必要以外はあまりいじったりもしない。知らない事もあまり何とも思わないのだけど、まずこの事が、私の中で「外の激変」くらいの印象に捉えられていた。そしてそれがクルッとひっくり返る。
⦅あぁそうか…、”私が止まっている”からだ⦆
となる。
この場所へは、来る頻度も今までとあまり変わっていない。だけどとても衝撃的に感じた変化。何でもない店舗の、買い物時の一コマだったのだけど、その”コト”に対して自分の中から出る思いと考えが、今までのカタマリから見ているもの、という事が明らかになった時だった。
世の中が変わるのは仕方ないし、いつでも何かしらが変わり続けているわけだけども、殆どはその変化に自然とついていく(と無意識で処理する)程度のもの。
内・外ということにフォーカスされてから、その世界が止まらない目まぐるしさを実感し、かなりのハードさを体験している。
同時に「こういう事か…』とか、新しい見え方が現れるので気づき、メモもあちこちに多く、それも含めかなり内側が忙しい状態が続いている。(自分の)外側を見て、激しく(強くしっかりと)「そう感じた」時、クルっと回り(返り)、「私が固定されていたんだな」という事に目が向いた。
「外の世界」は、確かに変わった。すごくとても大きく昔とは違うんだ、という事を感じたその反対側、「私」に返り、”今まで”というものを抱えた私があったと自覚。ずっとそれで居れた、来れたということが引き出されて…そして外・内ともに崩れる。世界(外側)がもう違うということを知った私(内側)も、それを”分かった”と呑み込む時、”私”も崩れて流れていく。
流さざるを得なかった。無意識にあった”私”というものが、散々に崩れていく。新しい自分ができる時はいつも、この体験がある。
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”衝撃”に感じたのは、私が「心地よくない」からだと思う。作業が変わるだけでなく、今の時代と、昔の時代のそれは、本当にまったく大きく中身が違うので、そこに対しての悲しさみたいなものも少しあったように思う。
この「人」と接するたびに考えてしまうのは…言葉の使い方。畏まったやり取りでなければちょっとした会話なら私はラフな言葉を使う。それがもしどのシチュエーションでもちゃんとした言葉が必要ならば、人はあまりにも分断され過ぎているように私は思ってしまう。とても難しい世の中だな、と。
で、外の世界の変化に必要に応じてこちらも変えていく、変わって行くことになるわけだけど、決してそれが、時代として必ずしも”良い”とは限らなくて。時代を追っかけて行く所から逸脱すると、”取り残される”という事から「先端を追い続ける」というのも良いのだろうけど、何となくあまり好きでなくて。
こういう動き方が、残される側、分けられた片割れというものの走りとか。ちょっとまだはっきりと言葉にできないけど、何か引っ掛かる。
必要でやる事と、好きでもないけどグングンそっちへ行かされる事とでは自分の内側がすぐには納得しないというか…。これこそが、「”私”が今までのカタマリである事の証」という事になるのだけど…、深い所で少し抵抗があるらしい。
(この最後の部分は、noteに移している段階の「アタマ」で書いたもの。買い物時の状態をその時のアタマで気づいたままにメモしているものより、”揺れ”が少ない状態になる。衝撃の最中に居る時のアタマと、落ち着いた”その時”のことを思い出して書いている状態でのアタマとでは、やはり違う。
感じているのはこの私自身だから勿論よく分かるのだけど、”その時”はソレが全て”になった状態、その中に居たように思う。そしてここに書いている2日後では、当然「逆の」状態にあり、「”その時居た場所”は、今この頭の中」という感じがしている。
すでに記憶となっているのだから”頭の中”で当たり前なのだけど、”その時”は、記憶でない世界に剥き出しの私があったという様な表現ができる様にも感じ、衝撃が大きかったのかもしれない。
「リアルに接した幻想」のような雰囲気さえあった、と今なら言えるような不思議さがあった。
その時のメモは他にもありそれは「食べ物」に絡んだ内側の気づきの事だった。この事に関しては買い物時だけでなく連なりのメモも関連していて、明日書いていく予定です)