戻って気づかされる線
これは一昨日、私が勝手に「そうかな」と、その様にしか観えなかった、けれどもの凄くハマったこと。あくまでも独自の考え方なので、そんな風に見えた、という話をちょこっと。
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重ねて入ってくる言葉、同様を現わすもの、は氣に留めるようにしている。おもしろいなぁ…と思っていた、”かぶせられる傘”と、ある記事で見入った”カサ”と。
そこから「遷宮」行事や「霊線」の事へ入っていく・・・。
何となくのイメージがつくと、同じように視えるものが出てくる。
・御神体=ご身体
・信仰心=絆
ここの所、父絡みで病院の事など浮かんでいる映像がそれらと結びつく。あくまでも私の”イメージ”で、父がそんな風にされている訳じゃないです笑。
身体を拘束により結ばれる”画”から、霊線へと繋げた。
儀式のカタチは「遷座」。
その「人」が終わる時、家族によって霊線の整理ができる、という風に感じた。
その人の事実が移り込んでくる、というより、その後生きている者の中で、活かされる(生かされる)モノがあるという感じ。
そうして受け継がれて行くんだ…と思っていた。
(移り込んでも生きている人ならば、その取捨選択は可能な事だから、強制されるものじゃない)
後に家族が続くという事は、かなり幸せな事なんだね。私の家系は私が最後だから。そんな風に思うと、しっかり、存分になんて思ったりします(*^^*)
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なぜここでハマったのかは想像が付いている。
以前、”儀式の夢”をみてその後の別の見方を、そのヘビ(コブラ)は「Gじゃなかったか?」と感じているから。父は巳年でヘビは私にとって父も連想させるものだったから。
そういう所からもきっと「あ、統合だ」があった訳で。
時系列や理屈で考えると、とてもおかしな話になるのだけども、そもそも脳は、そんないつだかのインプット(材料)を元にして繋いでいるのだから。それらが、そういう過去のインプットが”今”という所で「結びつく」。
そう考えたらそもそも、現在・過去・未来なんてないね。「今」でしか現れてこないのだから。
ただ。私は知識が後付けが多いから、「不思議だな」と思う事は最近よくあって。
私が、儀式の夢を見たり、やっぱり知らないような先住民の儀式に繋がる様な夢だったりを見るというのは「古い記憶」、自分が経験していない事は勿論、私の記憶じゃない、遠いどこか、誰かの「記憶」なんだろう、と思わずにはいられない。
何年か前は、「ソコに繋がったらいいな!」の思いで探ったりしたけども、今は結果的に「やっぱりそこに繋がるんだね?」、という感じの驚きになる。
だから私は。
もう”設定した自分”、で日々を暮らしている(*^^*)
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神と人というものの間はもうそれは大分遠い存在、と感じるけれども。何か「式」というカタチを見ていると、とても別には思えない、と私は感じている。
だからそれは。
名の付く貴い人ばかりの話じゃなく、みなが尊いと当然に考えるべきだろうと、当たり前の中に消えているそれを、少し浮き上がらせてみる。