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サイコーのしあわせ

1陣目のワン散歩中、前方から軽トラが来るのに気づきワン達を寄せて端で止まっていた。

誰とも知らないけれど、挨拶の意味で深くゆっくりお辞儀をすると、マスクをした中年男性は深々と頭を下げてゆっくり横を通って行った。

眼鏡は反射して光っていたけれど、目じりの下がった表情はきちんと見えた。


ジワジワと、ゆっくり上がる喜び、私の口角も自然と上がる。「ああ~、なんてしあわせなんだろ」心はどんどん潤っていった。

言葉なんて交わしていない、やり取りは「表情」だけのほんの数秒の出来事。この一瞬にゆ~っくりがぎっしりとつまっている、と思った。


私は「言葉」というものに導かれてきた人生だからとても好き。だけれども、言葉がなくてもやり取りは完了している。

ニンゲンの前に、ただの生き物という存在だとしたら、言葉を使わず何を使って会話するか?テレパシーはちょっと高度だけれども、表情を動かす事ができる人間は大いに使わないと勿体ないね。


いつまでも幸せな気持ちがとても長持ちしていた私は、1陣散歩が終わり、帰宅するまで口角がずっと上がっていた事に気づいていた。脳も幸せと認識したでしょう(*^^*)

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その散歩中、ずっとその事を考えていた訳じゃなくて、他の事が頭の中を泳いでいた。

もし、私の何かが誰かから見た時に「スゴイ!」というものがあったとして。それを一般的な言い方で「才能」と言った場合。
その才は、自分に行使する事ができず、他の為にのみ、使う事で輝いている。ひとりではその才も発揮できない事になる。
『才能って、自分のものじゃない』
というのは、こういう事なんですね。


と、したらね。

「自分のものじゃない」という事を考えた時に、「自分のものに出来るものは何だろう?」と自分に問うた訳です。

出ましたよ、すぐに。唯一自分のものと出来るもの、

【我(自我)】

ですね、これしかなかったです(笑)難しい説明はいつものように、私には出来ませんので感じた事を書いています。

頭で考えて、「いや、それすらも自分のものじゃない」とする事もできるのだけど、思考せずに、初めに感じたままで書くスタイルが基本なのでその様に書きます。


その上で続けていくと、この「自分」という枠の中に何を抱え込みたいかという事なんですよね、きっと。

当たり前に、他人から、または世間ですっご~~い!と言われる事を、可能な限り引っ張り込んできたい、自分に。だってそうしたらほら、『凄い自分』が出来上がるみたいだもの。

それで、可能な限り世間で、または他人からひっでぇなぁぁ…と言われる事は排除したい、自分から。だってそうしたら、良い所しかないもの、ワタシ。


どうして人間て、逆に出来てるんだろう。何でこの世はみんな逆さまなんだろう?そんな風に今日は浮かび上がりました。

理屈を持ってきて足す事は簡単なのだけど、引いていく事は難しいんだよね、人間だから。”人生”と同じ。

だから人生に”マイナス”も足していくのだ。その解釈は読む方にお任せします(*^^*)


才能って(他)人に使うために、その人に与えられている。それを開花させてくれるのも他人、使わせてくれるのも他人、”自分のもの”ってどこだ??

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!