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考えは自分の頭の範囲

「”たられば”ってないんだけど。もしあの時アレを目にしていなかったら、今こうはなっていなかった・・・ってさ」

『うん、”ない”(笑)。あの時Yさんは”目にするのよ。ソレでなかったとしても他のものでも必ず目に止まったのよ(笑)だから、”たられば”はない。それしかなかった(*^^*)』


シャワーから上がった主人は、一人での時間を過ごした後、唐突に話してくる事が多い。きっと私が入浴しているのと同じ感じなんだろう。

「もしもあの時…、アレさえなかったら」

後に振り返ったそんな表現ってよくあると思う。だけど昨日は2人して、特に私は、それはないよ「絶対」、という確信に強い思いで返事をした。


色々な出来事などを観察していると、何となくだけどハッキリと感じてくるものがある。何と言うのか、「今こうして”ある”事が、偶然じゃなく”絶対の必然”なんだ」という感覚、ピタリとハマってる感。

それを遡れば、冒頭のようないきなりの、唐突な出会いというモノがあったりして、”その時”というのは、ソレというものの意味など一切分からず、ただ関心によって引き寄せられたとか…、そんな程度のもの。


成るべくしてのそのルートに乗った様な状態ではないので、意味など分からないのは当然だし、その「意味を付ける」のは、後に生きてくれたこの自分自身によって、「あの時」に焦点が向かう。


そんな風な事を思いながらの返事だった。私は無理矢理今までの全ての事を「そうだ」と結びつけるつもりはないけども※、もし今と同じ様な見方が出来る自分がその都度いたならば、やっぱり同じ考えをしただろう(笑)

という事は。

生きていると考え方は簡単に変わってしまう、という事。そんな事は当たり前なんだけど、それが「当たり前」という風に簡単には思えない状態に迷い込むのが人生でもあるのだ…、なんてツラツラ冒頭に書いてみました。


※結びつけるつもりはなくても、「縁」だったよなぁ…、と昨日も子供の頃の周囲の人たちの事をふと思い出していた。

家庭環境は”恵まれていた”とはならないかもしれないけど、私は以前から「(他)人に恵まれている」と自分では思っていた。他愛もない事だけど後にまで、重要な在り方(考え方)として私は教えてもらっていた、勿論「私にとって」の話だけども。

その「縁」以外で耳にする事はできたのかな?そう思うと、やっぱり「必然」と言えるのかな…、なんて思えたりもする。「今の私」フィルターを通せばそりゃそうなるわねぇ。

後で考えるという事は、如何様にもモノガタリは作れる、という事になる。



(これは大分前の下書きに加筆)

いつも自分が活動する場所でなければ、違う場所でのルールやマナーは異なるのが当然で、例えば自分の生活空間から一歩飛び出せば、そこは”自分家”ではないのは当然の事。

その、「物理的移動」をする事は簡単なんだけど、伴う”意識の移動”はあまり出来ないよね、私達には各々の”習慣”があるから。


たまに行く(又は初めて)場所・空間でそのルールやマナーを知らないのは当たり前の事で、そこで例えば何か注意・警告などを直接されたとして、それは恥ずかしい事でも悪い事でも全くないこと。

「あ、そうなのね」

それで終わってしまう。

この背後にあるものに少し触れると、

・そうされた事を何とも思わない
・それに対して”闘う”を選ぶ理由がない
・ここは”我が家”ではない…etc

まず、よく思うのは『自分が何かを”知らない”という事を、恥ずかしいと思う程ムダな事はない』ということ。”知らない事は山ほどある”という前提をまずこれはしっかりと頭に叩き込む。


その上で、自分のテリトリー外での出来事は、皆が共有する社会の場なのだから、知らない事・見えていない事があって当たり前で、何でも知っていると思い込んでる前提=無意識、を認識に上げておく事が大切と思う。


主人が教習所から帰宅した初日、主人に言った事があった。

『”何か言われる”という事を凄く嫌うもんね。全部が”文句”だと思ってるでしょう。それは違うよ。教官も前置きしてるじゃん。向こうは仕事でやってるだけだから(*^^*)』

今でこそ、そんなに目くじら立てる事もなくなったけども、主人は(他)人に何かを言われるのが嫌い。昔は「何か言われた」という行いに出会うだけで、中身を吟味していなかった。


闘う態勢をとる必要がないし、悪い事でもない。ただ、その経験のお蔭で次に活かせるパターンは増えるだけ。

何かの”衝撃”に出会う事って学びになるよね。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!