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記憶との摩擦

去年かなぁ、
去年くらいからだったと思うんだけど…。

『あれぇ…、今までみたいに”軽く”は行かないなぁ』

と感じたのは。

何というか、今まではもっと頭の中に余裕もあったし、とにかく一言で言うと、大体すべてがもっと”軽やかにできた”ということ。それが、例えば一時的な”大変さ”が終わって、それでまた”元に戻る”って思ってるんだけど何となくまた”重さ”みたいな時を感じる事が多い。

それが、何が起きているという事は具体的にすぐに出てこないのだけど、でもやっぱりトータルで「全然軽やかな空気感ではない」という印象はこの身体にしっかりと残していた。


そして今朝(昨日の事)、起きがけに上がってきたね、「”向き”が違うんだ」と。

やっぱり現象がある程度のボリュームにならないと分からない事はあって、一時的の度合いを完全に越して、そちらの方が”主”となっているような状態、「逆」に変わっていくその継続中のことを、経過の中から理解する。

今までよく書いてきた、自覚するこの”自分”というもの、自分を主にできる→の向きの行いから、段々とボリュームの切替えが起きてきて、まだ抵抗する自分を十分に抱えながら、でも結局は「起きる(起こる)現象から自分側を動かしていく」という、←の向きの行いに変わって行っていて。

同じようにこの自分という存在が動くことに変わりはないのだけど、これが必ず自分の意思・考えというものが存在することによって、一時的にでも、時に強烈な摩擦だって起こる。自分の意思により”何かをしよう・する”というのは、当然のことだから。


何か月前にも確か触れている、”諦め・手放す”こと。
自分の目指すもの(こと)があって、それを目指していく動きを大小関係なく人は行うわけだけども、それがこの自覚側の”自分”の選択が例えばことごとく遮られるとか、理由は何でも「できない」状態を突き付けられる時がある、という話。

その時に自分の向き→をそこでやめて、その事に従う←という向きの転換が起きるわけで、これをスピ的に(?)お任せとかサレンダーとか表現する(注:本質的なスピリチュアルはかなり少ないので、殆どは表面をなぞったそれの表現)。

動作・行動を止めてしまうのではなく、現象から自分の動きをこなすというあくまでも向きの転換。これがこの私に現れている事で、この長いことの流れ自体がそうであると気づきに上がったのは今日(昨日の事)だった※、ということ。

朝にそれを思った時、柔らかく肚にスルッと落ちていくものがあったり、そしてまたこれを記憶から引き出してきた―――。


”スピリチュアル”から今の私へ繋がってきた、と言っても過言ではないと思う。それがスピのカテゴリーなのかどうかも分からないけど、主人が知った「引き寄せの法則」が大元、又聞きから始まった旅が私の人生となった。

”それはどういう事?”

自分で色々検索をして読み漁ったりして、当たりを付けたものを読むほどにふわっとした話じゃない事を理解していき、後に引き寄せなんて言葉はマジメには使いたくないとさえ思った。

捉え方が変わり、どんどん核心を掴むような考え方・在り方をする様になり、後々に、「”自分”がある人ほどこれはキツイこと」だと思った。この感覚の時には既に、”自分と向き合う”という行いへ切り替わっている最中のこと。


振り返るその頃の自分の理解は、まだまだの全然浅いところであるけども、感覚的にはしっかりと掴んでいるわけで、この”わたくし”という自分の部分を捨てる、という表現ができてしまうその場面の、そうならざるを得ない場面の、キツさを掴んでいたから。

そこから何年も経っているわけで、それでも”実行”は、きちんと現在の自分の身の丈に合っているとでもいう様なきちんとした進捗で、自分自身で状態は掴み(把握し)つつ、実践・実行という現場の割合が増えて消化していく事も多く、この「私」を抱えながら、現場からこの私を動かしていくという転換を行う…、「私」という存在はなくなる事はないのだから、だからこそ状況によってはキツさを感じ、そこで手放し(気づいて抜く)という事のくり返し…、その反復で反対方向のクセ付け。


私は、「私」というものがなければならないと思っているし、事実どこを定義するかは置いておいて、”私”という自覚するものはここにあるのだからそれを無視することはせずに活かす、と考えている。

だけどこの存在自体が壁になる事も場面によっては多々あるわけで、自分を”抜く”とか”消す”という表現ができる状態が必要になる。

だけどこれもやっぱり表現で、人は自然と場面によってはその切り替えを行っていると言えるし、それでもその状態においてもやはりそれは「私」だということも出来る・・・となると、この時点で境界はなく、その範囲すべてが「わたし」というものになる、という事にもなる。

分けているのは、この自覚のある”意識”だけで、その状態は常にその様にあるものを意識されたことにより「分けられてそれを見ている」というその世界の浮き彫り。


前半の話と繋げていくと、現場からの対応・対処というものは、”重さ”が生じるのだと思う。必ずと言っても良いと思う。そしてこの”重さ”を感じるのは「私自身」というもので、そこから考えると、普段の重さを感じないものは、向きへの摩擦がないとか、情報だけだからとか、考えられる理由はあると思うのだけど、必ずしも動作が前提ではなくても「重み」を感じると思う。

実際の動作による負荷、通常の向きと異なる抵抗の多い状態―――。

その動きがスムーズにできるまでは、エネルギーは大分使うのだと思う。

・・・


この長いことの流れ自体がそうであると気づきに上がったのは今日(昨日の事)だった、

既に、数か月前にはこの、”行いの向きが逆”という気づき自体は自分に上がっている。それの実践がジワジワ進行しているという様な感じで、ソレを行っている時というのは、まずハマっている状態で”その時”に「そうだ、あれだ」という冷静なものと結びつけずに、ただとにかくハマっている(実行している)。

そして、自分の古い意識自体が記憶と現在の状態との「差」が続くことに、改めて気づき直し、その度に現場の実行の意識を強める。自分の無意識の、「あの状態が良い」と思い込んでいる状態がある事、頭の中の”軽やか”にどこか戻ろうとするモノがあるように感じた。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!