見出し画像

自分を創っていく

昨日、主人が仕事中に軽い熱中症状態になったらしく。

エナジードリンクとやらで、なんとか凌いだらしい。

夜は、モリモリご飯を食べていた。

酷暑の地域の方々も。

体調、本当に気をつけましょうね。


”別世界”の話は、ちょっと置いておきます。

応募記事の方に頭を集中させていて、直ぐには切り替えできなくて。もう少しで書き終えるので、それから触れていきたいと思います。

簡単なメモで終わらせます。

7/8メモ

固い→しなやか  なこと。

繋ぎ、繫げ方がしなやかである事が、数日(間)視えている。

接合(接着?)の仕方が強固だと”カベ”になる。

外との関係の事ではない、”自分”という生きものの中身の話。

・・・

小さな粒の、その”点”のくっつき方がよくイメージされていた。

それが柔軟性なくしっかりと接合された状態は、まったく1枚のカベのような硬さになる…、粒だというのに。

”目指すはしなやかな強さだけども、自然なその柔らかさに到達するまでは、”点”の数も少なく、「線」で結ばれている部分が多いため、ギクシャクもする(7/1メモ)”。

イメージされる「点」の事を書いていたのだけども、その少し前のメモでは、「線」という表現をしているのを見つけて。

私の”経緯”が、カベから崩して来て分解したりして、だけどいきなりしなやかにはならずに、その前の状態はまだ「線」の部分も多くあっただろう、とそれらのメモから想像した。

そして粒になった状態、それはいいのだけども、それ同士を繫がなければしなやかも何もない。

何か、そんな事を思っていた。


7/2メモ

「”忙しい”って、現実にいるなぁ」って思う。

心で何かを感じている時に、”生きている”のでなくて、心をなくしている時、それ正に生きている、と言うんじゃないかね。

・・・

これは、少し前に「現実世界に居る時、”時間”はない」という様なことをどこかで書いているのだけども、それと同様の感じの事(と思う)。

その”行い”というものの中に置かれている時というのは、それを説明する概念と必ずズレていると感じるから。

言葉になる、できている時というのは、その時点でその現象から外れているもの。外れ、ズレていなければソレにはならない。

”無意識”とズレなく一体化している状態は、同じタイミングでは”意識”の状態にない、ズレて観測。自らに於いては。

だから、他者の方が”その時”、”その状態”を正確に観る事ができるというのは、正しい事でもある。


7/9メモ

内にあるもの…身体化したモノのこと。

外側の、身に付けたものを削ぎ落して、内側へ到達し、そこからこの自分がどうしたいか、という一々の問いを重ねて創りだす自分。

環境によって作られていた自分から、この自分自身によって創造していく自分へ。

ここからは完全に”自己責任”だろうな。

・・・

色々な表現で似たような事は書いているけども、私たちは初めは”環境”によって、この”自分”がつくられてしまう、自分自身だというのに。

そしてそれを「自分だ」という風に思い込んで何十年と生きてくるわけで。それを自ら引っ剥がし、残すものを今の自分の意志によって仕分けしていく。

イコール。
自分で意識して行っていくという”一々”があるという事は、自分で決めているという事なので。

そこから本当の”自己責任”が発生してくる、と私は思う。

引きづってきたものは、自分の意志で行った訳ではなくて、殆どが分からない内に身に付け、一体化したかのような自分と勘違いする様なモノ。

「自分」というブリコラージュ。

元々持っているものなんて、ほんの少ししかないのかもしれない。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!