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バランス

結局、道具やサービス、出来事、世界。それ自体が「良い悪い」二択論ではなくて「使う人」次第、その許容量、バランス感覚『眺め方』によって姿を変えるだけなんだろうなという当たり前話。

メタバース空間で「デジタルの美しく完璧な世界」で旅をしていると、ノイズやストレスは多くも「圧倒的に情報力が多い」リアルな自然の風景やアナログな美術作品と向き合いたくなるし。

メタバースのお店で「どこからでもふらりと参加してくれる」匿名の住人(生物?)と話しているとリアルのお店(はっち)に「わざわざ遠方から来てくれる人」と話すのがより有り難く感じるし。

スマホアプリのSNSで日々垂れ流される刺激的な情報「罵詈雑言のタイムライン」に疲れると、紙の本を手に取って、ドストやルソー、ニーチェやレビィストとかに時間を超えて会いに行って「静かに脳内対話を重ねたくなる」し。指先やタッチパネルじゃなく、「五感で世界に触れたくなる」し。

また、こうしてWEBで駄文として垂れ流していることもあれば、大切なことなので、当然に「言語化せずにとどめている」ことも沢山あるわけで。

なんでも誰かに点数や評価されて消費される現代社会だけれど。結局のところ使う人それぞれの「許容の仕方、バランス感覚」によって受け取っているもの『眺め方』が全然違っているのだろうなと「当たり前に当たり前すぎる話」をあらためて思う。

まあ「だからなんだ」というわけではないのだけれど。

なんだか、正解をすぐに求められたり、分断が広がっている中で。そうした”どっぷり「どちらかに」ハマり込む、染められてしまう”危険を自分なりに感じたら「デトックスしてリバランスする」そんなパースペクティブ感覚。自戒も込めて大切にしたいな。と思うのです。

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