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閉塞感からの脱出話

自分にとっての”隠居”は老化を自虐的に認めるというより「承認欲求地獄」「つながりゲーム」からの「離脱宣言」なのだよなあと実感した話。

昨日読んだ、宇野常寛の「砂漠と偉人たち」は全体としてはツギハギというか漫然とした読後感でしたが。所々のテキストには共感させられた。例えば一部を下記に抜粋すると。

”若い頃に(主に80年代から90年代にかけて)サブカルチャーを消費することを、政治的なイデオロギーから距離を置くための知恵として用いていた世代が加齢とともに肥大化する欲望に対抗できなくなり政治的なイデオロギーに同一化してしまった症例で現在のタイムラインは埋め尽くされている”

”政治的の話を忌避してきた新人類たちの末裔が陰謀論を拡散する左派ポピュリズムに取り込まれ(中略)歴史修正主義とヘイトスピーチの急先鋒となっている現実から目を背けるべきではない”

うん。よく使われる時代の”閉塞感”。これって、昭和の男性マッチョイズム的”タテの関係”「ピラミッド型競争システム」に嫌気がさしてサブカルチャーやインターネットに逃げて”ヨコの関係”「牧歌的な空間」に耽溺したはずの”かっての若者”団塊ジュニア世代が結局は加齢と共にSNSの誕生で「またシステムに取り込まれてしまっておきている」のだと私も思っていて。

つまり今の”閉塞感”って、結果として自分たちで首を絞めるかのように「タテにも”ヨコにも”逃げ場がなくなった」感覚を指しているのだと思うのですね。SNSやWEBのプラットフォームの種類に関係なく。

・・で、宇野常寛自身は彼なりに「そこからの離脱方法」を提案しているわけですが。(それはさておき)

私の場合は(ここで書いている自分備忘録的な駄文もそうですが)そうした「相互評価ゲーム」からの離脱方法”宣言”として「隠居」という言葉を早々に使って今は「活動」しているのだと思う。

具体的には、街(梅田)外れの”本屋のふりをした”隠れ家【はっち】や、多少の技術的フィルタリングが必要とされるからネット黎明期のような牧歌的な空気がまだ残る【メタバース】で「タテから、ヨコから認められたい欲望、欲求から離れて」穏やかな日々を過ごしながら「自分なりに考察を重ねている」のだと思うのですね。

(ちなみに何故、今は『本屋』をしているかの理由も宇野常寛からテキストを借りると"人間ではなく、人間が制作した事物は、多くの場合人間そのものよりも多くの豊かな可能性を内包している"からです。つまり人自体への興味、ヒーロー的に誰かに勝手に期待するより『アウトプットとしての本』に現在の私は『より可能性を感じている』のです)

うまくまとめる気はありませんが。割と世代的感覚の近い宇野常寛「砂漠と偉人たち」を読んで。自分の”隠居生活”が自分なりにストンと理解できた気がする朝。すっきり。

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