味園ビル
レジャーシティ味園ビル、千日前二番街ビル。昭和世代にはローカルCMのイメージでかって存在した巨大キャバレー「ユニバース」が懐かしの場所として、若者世代にはビル2Fフロアの個性的なテナントがメディアや映画で紹介され東京の新宿ゴールデン街と並ぶ「サブカルチャー、アンダーグラウンド文化発信地」と認識されています。
このビルは1956年に、こちらもかって存在した「水中ステーション」で有名だったあべのプールも経営した初代オーナー志井銀次郎(しいぎんじろう 1924~2007年)がすべての設計アイデアをスケッチし、それをもとに全て社内のスタッフ・職人たちが増改築と業態のマイナーチェンジをしていったセルフビルド的な経緯があることで知られています。(その事で「隠し部屋がある」とか「四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)の壁画がどこかにある」とかの噂がたくさん存在します)
開業当時は3層吹抜け、ステージに天井高12mまで上下する舞台が5つあるキャバレー「ユニバース」が誕生、ナニワのモーツアルトことキダタローがピアノを弾いたり、デビュー前の和田アキ子もミュージシャンとして専属所属し、1962年にはアメリカのグラフ誌「Life」誌 2月号で “IN JAPAN’S BIGGEST CLUB”「日本最大のクラブ」 として紹介され、海外から観光客を訪れる中、70年~80年にかけて営業を続けながら大改修工事を行い、77年にはキャバレー「ユニバース」をレストランシアターとして改装し、こけら落としにはデビュー直後のピンクレディが出演、またキャバレーの巨大な吹き抜け空間に「後から床を入れて」キャバレーは地下へ、新たに2F~4Fスペースが2Fはバーやスナック・飲食店のあるテナントフロア、3Fはサウナ、4Fは格安ホテル(現在は閉鎖)の3フロアとして追加されるなど連日、大繁盛していました。(今もそれぞれのフロアに「ゆるやかな傾斜」があるのは元のキャバレーステージが見やすいように、ステージから客席うしろにかけてちょっとした傾斜がついていた時の名残です)
その後も1980年代のバブル経済期まではミナミ、千日前の歓楽街を代表する存在でしたが、1990年代半ばからバブル崩壊とともに次第に低迷。一時期は特に2階テナントフロアの大半が空き物件という状況までになりましたが、2004年に運営会社が「テナント料を大幅に下げる」という判断をし、個性的なバーや飲食店を誘致したことで息を吹き返し、2011年3月にキャバレー「ユニバース」は自体はついに閉店するも、昭和の空気を色濃く残した貸ホールとして活用されるなど前述のとおり「サブカルチャー、アンダーグラウンド文化発信地」「大阪ミナミの魔窟」「ミナミの魔窟」と呼ばれて、保山宗明玉(元モダンチョキチョキズ)、松前公高、赤犬の各メンバー、中将タカノリ、山田ジャック、野溝さやか、ロマンポルシェなど関西を中心とした「サブカル人士が店舗経営したり足繁く通うことでも知られる」存在となりました。2014年8月「生きた建築ニュージアム・大阪セレクション」選定、60周年となる2015年には山下敦弘監督により当ビル「ユニバース」を舞台にした映画「味園ユニバース」が公開されました。
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