見出し画像

「ポストフェイク」とメディアについて

本日、ラジオに出演する。
あらかじめお伝えするが、これはあくまで僕側の反省であり、感じたことなので、悪しからずご覧いただければと思う。

●ラジオになぜ出演したのか?
●ポストフェイクについて


この点を話したいと考えている。
つまりは、ライナーノーツを書きながら、メディアで伝えるということに関して僕が思ったことを書く。
ライナーノーツに関しては、ラジオ出演を通して書かなければいけない、
と思った節もある。

1.ラジオになぜ出演したのか?

今回「Turns blue」という僕の音楽プロジェクトが、夜明けの疾走というシングルを出した。その中に「ポストフェイク」という曲がある。


僕のこの曲に込めた大きな意図は、この曲そのものがメディア化して、僕とリスナーをつなぐコミュニケーション、もっと言えば議論のツールになればいいというものだった。その契機の一つとして、ラジオでその曲について伝えることができれば、コミュニケーションの一環として適切だと思い、出演することにした。
しかしその番組自体が、出演時間が限られていたという致し方ない事情や、僕自身のコミュニケーション能力不足があり、そこで全てを伝えきることはできなかった。なので、ここで補論という形をとりながら、ライナーノーツを書こうと思う。奇しくも、「ポストフェイク」はメディアにも関わる歌なのだ。ある意味、自分自身で「反ポストフェイク」的なスタンスをとってしまった皮肉と反省が、このnoteに僕を駆り立てている。

2.ポストフェイクについて

感情の時代と言われて久しい。
真実は背景の背景に退き、感情がもたらす選択が世の中の中心になった。
是非はさておき、それは世間がどんな大統領を選んでいるか、どんな投票をしているか、大きな世界の流れを見ても明らかだ。日常的なところでも、満員電車ではよく睨み合いが起き、Twitterでは知識をつけるより先に批判をする世論が増えている。そういった「ポストトゥルース 」、もしくは「フェイクニュース」の時代を超えて、新しい時代に行くために、僕らは今をどう見たら良いのだろうか?

「今を嫌になる程見つめて、その先を考えること」

僕自身Turns blueを通して考えている命題の大きな一つだ。
それに対して一つの「提案」をしたのが、ポストフェイク。
もはや真実はなく、その中で受け入れるのではなく反芻すること、それを市井の中で意識していくことこそが大切なのではないか?
歌詞の最後は、投げかけの連続なのだ。
この曲と歌詞が、僕とリスナーをつなぐメディアになって欲しい。そういう願いを込めたと記憶している。

改めて、歌詞を読んでほしい。

ポストフェイク

「正しく健やかな生活を」
校長先生の言葉より
「あいつ影でこんな事してる」
噂話の方が刺激的です
真実はいつも1つです
それはアニメの中にある空想で
心をくすぐった情報が
気づいたら真実になるのです

ファクトチェック なんてウワノソラ
感情の赴くままに 攻撃
正しい自分の出来上がり
安心したいならしょうがない

デジタルネイティブな僕らです
それは都会の中にある現実で
情報を見る目はありますか
恥ずかしいまま大人になりそうです

葬られた真実と 作り物の熱狂に
疲れ切った僕は隅で 静かに死んで行く運命か
今が失せる

情報の洪水の時代に生まれて
見出しに踊った 意味のない言葉
フェイクニュース ポストトゥルース
なす術はないか?
襟を正せ 目を凝らせ 耳澄ませ

不倫 謝罪 いらん 話ばかりで
笑ってしまうな 午後のワイドショー
それを食って指差して物申す
僕らの生活 笑えてしまうな

葬られた真実と
作り物の熱狂に
疲れ切った君が言った
「それでも生きていく宿命だ」 
今が光る

情報の洪水の時代に生まれて
見出しに踊った 意味のない言葉
フェイクニュース ポストトゥルース
なす術はないか?
襟を正せ 目を凝らせ 耳澄ませ

煮え切らない色はいらない
正しさなどはどこにもないよ
それでも今日を流し込むか?
受け入れるしかない虚しい僕らか?

3.実際に出演して感じたこと


実際に出演したが、何よりまず、「ポストトゥルース」「フェイクニュース」という言葉そのものを話さなければいけなかったことには、驚きを隠せなかった。そこからというもの、僕はしっかりと伝えるべきことを話していたのかどうか、あまり定かな記憶がない。その驚きにあっけにとられていたからだ。
現時点で放送前なので、どこがどう編集されているかわからないが、DJの方から「同調圧力」という言葉が出たが、そこに関しては「ポストトゥルース 」的なものと同調圧力は、似ているようで違う。あくまで人々は感情的なものに扇動されているのであって、同調圧力に負けているということではない。
しかし僕の方が、「同調圧力」に屈した。
それは聞いてもらえばわかると思う。

ただしこれも、僕の露出に対する計画不足であり、意図に対して結果がついてこなかっただけという純然たる結果である。

何かを発するとき、感情に任せていないだろうか?
何かを発するとき、その面倒臭さや、コミュニケーションの不可能性に屈していないだろうか。

襟を正せという歌詞は、今回皮肉にも自分自身に向いてしまった。


この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。