間引きした気持ちの行方


大人になるために、もしくは大人のように振る舞えるようになるために、無理やり引っこ抜いた自分の気持ちがいくつかある。
大きくなるにつれてぐらぐらして、むしろ抜いて楽になった気持ちもある。

そういうのは最近じゃ少なくなったので、たまにあると結構覚えているものだけど、10代後半から20代前半くらいまではありすぎて全部は覚えていない。
大人になるため、というか当時あまりにも多くの理不尽を目の当たりにした自分の生き抜くための術だった。間引きのようなものだと思うけれど、自分の気持ちを無理やり引っこ抜く度に、本当はどうしようもない寂しさに蓋をする感じとか、理不尽に納得するふりとか、惨めな思いをなかったことにしようとしたりとか、今思うと結構しんどいことだったなと思う。

それでも根腐れも起こさず、ここまで元気に生き続けているのは自分のそういう「不要なもの」として排除していた気持ちを、実はこっそり土に植え替えてくれるような人が居てくれたからだと思う。
そういう人のことって、大事だしものすごく感謝している。
その中でも、何故か特別忘れられない記憶がある。

21くらいの頃、夏の夜に友達二人が家に来て夜から朝まで映画を観ていたことがあった。その会は予定をしていたものではなく、友達みんなが集まるライブハウスで久しぶりに会った。別れるのが寂しくてなんとなくそのまま家に連れて帰ってしまった気がする。
どんな話をしたか、何を食べたか、あんまり覚えていない。けど好きな映画のおすすめポイントを教えてくれたりとか、三人で朝に歯磨きをしたりとか、布団二組に雑魚寝したりとか、ソファで三人でくっ付いて朝から映画観たりとか、そういうのは覚えている。覚えているというか、染みついている。
その日私の心の中の何かが、ぽろりとこぼれる感じがした。何かを言われたとか、衝撃的なことがあったとかじゃなく、自然と自分から出てしまったような。多分、二人も同じような感覚があったと思う。聞いたことないし、今後も聞く予定はないからわからないけど。
三人で過ごしているその時間を、お互いに渡してタイムカプセルを預け合うようなそんな感覚。それは、何年も経った今も変わらないでちゃんとある。

今は三人とも別の土地で暮らしていて、時々SNSで会話したり近況を知らせたりするくらいだけど、それだけでもほっとするから不思議。
心が擦れてしまいそうなとき、何通かメッセージをやりとりするだけで大丈夫になれる。あの頃の私の気持ちを、ちゃんと汲んでくれている人が現在進行形で居てくれるのだと感じる。本当の意味で一人ではないのだと、上質な手縫いの浴衣で包まれたように心地良い。

二人に会いたいな。
めがねって、最期どんな風に終わったんだっけ。キツツキと雨、みんなで映画を作っていく感じ面白かったな。ナイスの森、ナイスの森はやばかったな。

君たちのあの頃の気持ちは私が一生持っているよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?