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あたためる方法

ありとあらゆる場面で、あまりの冷たさに驚くことがある。
陽が沈んだあとの金木犀の匂い、死んだ猫の体温、コストコのチルドコーナー、冬暁の夫の鼻、ちくちく言葉を言われた時の心、待ち合わせ場所に走ってきた友達の指先、飲みかけのまま置きっぱなしにしていたコーヒー、

30年生きていてもそういった冷たさはいちいち新鮮で、その度に驚いている。

昨日はあまりにも寒く、一日じゅう悩んだが結局夜に灯油を買いに行った。
先週のうちにストーブは出して掃除を済ませていたが、こんなにはやく使うとは思わなかった。例年よりも三週間ほどはやいと思う。

灯油を注ぐ音が、これから始まる長く厳しい冬の合図みたいに聞こえた。私はその音に静かに覚悟を強いられているようで、妙に素直な「はい」という受け入れる気持ちになる。

ストーブを付けると、一気に部屋中の空気が燃えて冬の匂いになった。わずかに感じていた秋の残り香ごと燃えてしまって寂しさを感じる隙間もない。



8月の暑い夜に、知人の訃報が届いた。
真夏であるにも関わらずからだのどこか一部がずっとひんやりしている感覚が拭えなくて、それからしばらくの間うまく眠れない日々が続いた。
夫が居る日は比較的眠れたけれど、夜中に目が覚めるともう眠れなかった。夫の居ない日は一人で明るくなるまで起きていて、朝を確認してから少しだけ眠った。
私は親しいわけではなかったのに、彼の死を想像すると寂しくて冷たくて、眠気が来たと思えば消えて、ずっと背中がざわざわしていた。

私よりも夫の方が近しい人だった。夫はショックを受けていたようにも見えたし、静かに耐えながら受け入れているようにも見えた。
実感がないのに、不意に襲ってくるまざまざとした悲しみのせいか、私たちはいつも以上に二人でくっつくことや、言葉を交わす時間が多くなった気がする。
死ぬときの話を何度もした。どちらか死んでしまった時の話を何度もした。一人になったときに少し泣いた。

いつまで眠れないのだろう、と不安になることもあったけれど、いつもたくさん眠っているからこんな時期もあっていいだろう、とあまり気にせず文章を書いたり読んだり映画を観て夜を凌いだ。



そんな風に眠れない日々が続いていたが、先月実家に泊まった際久しぶりに熟睡した。
目が覚めるといつの間にか猫が私の布団に入りぴっとりとくっついて眠っていて、小さな鼻息が私の心を撫でつけるみたいな朝だった。
何故猫はあんなにあたたかくて愛おしいのだろう。美しさの頂点に居る生き物だと本気で思う。
重みと温もりを感じながら愛猫を眺めていると、ずっと冷えていた部分がほんの少しやわらいだような気がした。


生きていると、やはりあまりの冷たさに驚くことがある。
冷たさはただの事象であり事実でしかないけれど、そこに残酷さを孕んでいることもあるし、救いも持ち合わせていることもある。
救いようのないこともある。
それでも私はあたためずにはいられないと思う。
誰かを助けることは絶対にできない。
助けようという思いすら烏滸がましいと思う。
「あなたに救われた」というようなことを言われたこともあるけれど、それは私ではなく本人の生命力だと思う。
それでも、これからもあらゆる冷たさに驚かされるからこそ、あたためる方法をたくさん集めて生きていきたい。


願わくは彼のたましいがあたたかい場所へたどりつけることを

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