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兄のこと


私が生まれる前の話を母から聞いたことがある。

当時4歳と2歳の兄たちに玄関で靴を履かせていたら、急に兄は外へ飛び出したという。
いつもはそんなことをしないので驚いていると、つられて次兄も外へ飛び出していった。
母は慌てて追いかけると二人は家の前で立ち止まり空を仰ぎ「ぼくたちに、妹をくださ〜い!」と叫んでいたそうだ。

その翌月、母のお腹に私がいることが判明した。
その話のせいで私は兄たちに望まれてやってきたスペシャルでカワイイカワイイ唯一無二の妹なのだ、と無限に思っている。
もちろん今も。



私が2歳のとき両親は離婚した。
兄は7歳、次兄は5歳だった。

父の居ない家庭を寂しいと思わなかったのは、父の記憶がなかったこともだが、兄たちの存在があったからだろう。
保護者欄の名前が母であること、部活の保護者車出し、宿題の「私の家族」「お父さんの仕事」「私のルーツ」
記憶も寂しさもなくとも、不在により存在を知らしめられる瞬間はなんとなく居心地の悪い気分だった。
それでも私はこれを兄たちが乗り越えてきたのなら、大したことではないのだと本気で思った。


幼少期のアルバムを開くと、次兄の幼稚園で父の日のイベントをやったと思われる写真が出てきた。
周りの子供たちはお父さんにお馬さんをやってもらったり、労うようにお父さんの肩を叩いていた。
次兄だけが、対格差が大きく変わらない兄の背中にギリギリ跨り、兄の肩を叩いていた。
写真の中で大きな大人たちに混ざって次兄を背負う兄は、小さくも頼もしく見えた。


次兄が熱を出して寝込み、母が付きっきりだったことがある。
幼かった私は、普段は私に一番構ってくれる母が自分と遊んでくれなくて不服だった。
昼間から布団の中でおうどんやらアイスクリームを食べて、母によしよしされている次兄が羨ましかった。
次兄は熱に浮かされて「苦しい、気持ち悪い」と泣き出し、母に抱かれて背中をさすられていた。
私はそれがひどく面白くなく、泣き喚いた。床に転がり癇癪を起こしたがそれでも母は来ず、やってきたのは兄だった。
泣き喚く私を、兄は母と同じ姿勢で抱き止めた。
母が次兄の背中をさすれば兄も私の背中をさすり、母が次兄に「苦しいねぇ、大丈夫よぅ、良くなるよぅ」と言えば、口調まで真似て兄は私に言葉をかけた。
固い男の胸もうさんくさい喋り方も納得がいかなかったが、私は兄の腕の中で落ち着くことができた。


兄はいつも自転車の後ろに私を乗せて友達との遊びに連れて行った。
川で泳ぐときも、公園で野球をするときも、田んぼへザリガニを取りに行くときも、カブトムシの仕掛けを作りに行く時も、少し危険な遊びでも私が「一緒に行きたい」と言えば必ず連れて行ってくれた。
その代わり、兄はいつも私に約束をさせた。
「俺から離れるなよ。何かあったらすぐ助けを呼べ、大声を出せるようにしておけ。俺はまだ大人ほどなんでもできないから、お前と俺で協力しないといけないんだ」
その言葉は未だに覚えているほど、当時の幼い私に緊張感を持たせた。
まるでむき出しになった兄の命を私が、私の命を兄が握っているような感覚だった。

これは兄が中学に入るまでの話で、彼は中学生になってからはメキメキとガラが悪くなりチャラついて、私を連れて遊びに行くことなどしなくなった。
そもそも家に居ないのだ。
その頃は私も小学校に通い始めて友達も居たので寂しくもなかった。
兄は思春期か反抗期か、はたまたその両方か、物言いや素行が荒くれていたので私も兄に対し「このクソ」と思っていた。
その頃の恥ずかしい兄の愚行は現在実家のアートとして残されている。

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どの家もそうであろうが、兄弟というものは仲が良い悪い、で語りきれるものでもない。
誰が誰のプリン食っただのドラクエのセーブデータを飛ばしただのCD割れただの、靴下を一緒に洗うななど、うんこが長いなど、一つ一つ死活問題かのように取っ組み合いのけんかをするが、数時間後には季節外れの百人一首を三時間ぶっ通しでやったりミニ四駆にリカちゃん人形を縛り付けて家中走らせたりしている。

けんかして、仲直りして、何度も当たり前に同じ食卓について、時々相談するつもりなく弱音を漏らしたりして、またけんかして、大体のことは笑い飛ばして、そんな風なことを10年以上繰り返した。


「離婚して一年くらいして、久しぶりに親父に会ったとき、親父の腕が太くて安心したんだよな。
だから俺、親父の腕ぴとぴと触ってた記憶ある」

いつだったか兄はそう言っていた。

兄の良いところは、私たちの「父親」になろうとはしなかったところ、自分にその腕の太さがないことを自覚していたところだと思う。
だから私たちに、特に私には言い聞かせていたのだ。「大人ほどなんでもできないから」と。

この言葉はすごい。
「子供だから」出来ない、と諦めることだってできるのに「大人ほど」なんでもはできないけれど、「ここまではできる」「ここを協力し合えば足りる」という、自分に現状やれることがある、ということを自覚させてくれるのだ。
この「大人」は何にでも置き換えることができる。
何か自分にとって難しそうなこと、新しく挑戦したいこと、なんとか成し遂げたいこと、そんなときに私はいつもこの言葉に勇気をもらう。



兄は、いつもうまそうに煙草を吸う。
その癖私が吸うことを嫌がる。

何故かしょっちゅう小汚い猫を拾う。
その癖猫には懐かれない。うんこを片付けるだけの人だと思われているのか、うんこした時だけ猫は兄に向って鳴いている。

酒は好きだがほとんど飲めず、ビール一杯で顔を真っ赤にしている。
飲み会帰りに自宅の最寄り駅でフラフラになっているところを私の友人に保護されて家まで送ってもらったことがある。
友人は私の兄だと知らなかった。悪い人じゃなさそうで、放っておけなかったのだという。

老若男女問わず「壮ちゃん」と呼ばれている。
私の夫の両親も、友達も、知人の子供も、何故かみんな壮ちゃんのへらへらした笑顔を一目で好きになる。
兄に会ったことのある私の知人はみな「壮ちゃん元気?最近の写真ある?」と聞いてくる。何が面白くてアラサーの兄の写真なんか撮ると思っているのか。

兄は人を見る目はないが、人の良いところを見つけるのはうまい。
格好つけだが、いつも格好つかない。

情に厚く涙脆く、9年前の次兄の結婚式で一人でこっそり泣いているところを親戚の子供に写真に撮られて全員にバレていた。
5年前の私の結婚式で兄は顔をベショベショにして誰よりも泣いていた。もはや隠せてすらなかった。


そんな兄が、去年結婚することとなったと連絡をくれたときは素直に嬉しかった。
「デキ婚~!?妊娠検査薬の陽性がプロポーズかいな~!!」などどいじったが、ダブルでめでたくて嬉しかった。

兄はたくさん我慢して、大人の顔色をみて、怒鳴り声と不仲を何よりも嫌い、誰も争わなくて済むように、その笑顔を作り上げてきた。
そこには少し悲しいけれど、人を思いやる気持ちが詰まっている。
きっとその笑顔に救われてきた人がたくさん居るのだろうと思う。だからみんな兄を好きになるのだ。
そしてその笑顔をまるごと汲み取り、一番間近で見守ってくれる人が出来たのだろう。


結婚おめでとう。
幸せになって欲しい、というのは烏滸がましいけれど、壮ちゃんが幸せなら私は、あと多分マーくんも嬉しいです。
私たちは兄弟だから、一緒に戦い抜いてきた三人だけの時間がある兄弟だから、きっとこの先もどんなに理不尽でも最終的には互いが互いの味方になってしまう。今までがそうであったように。
だからこそ、私はあなたたちをむやみやたらに味方にしてしまわないために、正しく私らしく、幸せであろうと思います。

いつも私をひとりにしないでくれてありがとう。
ベランダに段ボール基地作ったの、大人になった今ももう一回やってもいいくらい楽しかった。
ドラクエのセーブデータ消えたの知らないって言ったけど、8割私が消しました。
酔っぱらって帰ってきたときゲロ片付けてくれてありがとう。
壮ちゃんがインフルエンザになったとき看病したのに、それを私に移して治ったあなたはパチンコへ行ったこと、一生忘れません。
おかんに反対されてた私の変な恋人を笑って受け入れてくれてありがとう。
空に向かって私をあの家に呼んでくれてありがとう。
ヴァージンロード、三人で一緒に歩いてくれてありがとう。

それもこれも全部面と向かって言えなくてごめん。
言えないから、書いて、書いて、書くことしかできなくてごめん。伝えられなくてごめん。
ぜんぶ本当にありがとうって思っているよ。

これから壮ちゃんが進む道が、たくさんの幸せで溢れていることを心から願っています。

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