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中川多理・人形展・元映画館於『白堊 廃廟苑於』/川野芽生短歌朗読会『鳥葬声宴』+『人形歌集Ⅱ 骨ならびにボネ』/日々是徒然  [~について思う断章]

 できあがる瞬間に化学変位が起きて予想もしなかった形になることがある。その形が時代を作ることもあるし、創造のラウンドをすっと1段階上げたりもする。もちろん創作全部に起きるわけではない。寧ろ稀にしか起きないことだ。
その稀に起きることに結構な回数立ち会ってきた。たぶんそこに吸い寄せられて来たからだろう。だけれどもその瞬間のことを言葉にするのは難しい。自分の能力と立場ではできなかった。多分、今もこれからも…。記述は、今までの言葉あるいは見えている表層をとらえる言葉で行われる。

今から書く、断章と云うかメモのようなものは、言葉にならない/できない(自分の能力では)ものではあるが、次世代の人たちの喚起になればと…思って記してみる。

近々の報告としては、
東日暮里にある元映画館で、中川多理の展覧会[白堊 廃廟苑於はいびょうえんにおいて]が開催する。久々の大型の展示になる。ビスクに変えた中川多理の本格人形制作が始まった感じがする。

断章1
 中川多理がビスクで初めて作った人形を見たときに感じたのは、名前とか、この人形に関する言葉/文章についてだった。一旦、零にしてから始めた方が良いように思った。
 人形は手垢に汚れた言葉で扱われることの方が圧倒的に多い。エンタメ小説やホラーで扱われる人形は、チープなイメージで下品におとされる。どちらかというと被虐の対象だ。

人形のような~という云い方が示すことと、あるいは彼女は人形になりたかっった…などという筋立てが、今の創作人形からどれだけ無関係なほどにへだったっているかということに文字を書く人たちはほぼほぼ無神経だ。

中川多理のビスク人形を見た時、何かが決定的に違うものとして、出来上がってきていると感じた。この人形には、新たな言葉が必要なのだ。できれば名前もない(人形につけられた名称/名前は人形の運命行き道をけっこう左右する)状態から始めたいと思った。

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中川多理の展覧会[白堊 廃廟苑於はいびょうえんにおいて]に合わせて、川野芽生の『人形歌集II 骨ならびにボネ』がリリースされる。そして5月11日には川野芽生による短歌朗読が行われる。

断章2
このコラボレーションは興味深い。
『人形歌集II 骨ならびにボネ』は、『人形歌集 羽あるいは骨』に続く連作歌集であり、人形に向かって正対した珍しい、あるいははじめての言葉の創作である。
人形は…という典型を排除して、中川多理の人形それぞれの個性に向かって/から——詠み出した歌であるから唯一無比の行為になる。
人形への向かい方も、~についてであったり、人形になったり、作家の人形を作る時の手の裡からはじめたり…あるいは人形の奥深く潜って詠んだりと、実に多彩な視点を駆使している。
その歌を人形に聴かせたりもするのだから、そこで起きることは…そうして言葉を連ねていくことから、化学変位がラウンド変位が起きるかもしれない。
しかしながら、傍にいる自分としては、変位が起きることが目的ではなく、そのミームの中にいる、状況を快楽として体験していことが重要なのである。F1でも野球でもサッカーでも、結果は結果でしかなくて、その過程を如何に深く戦ったかが面白いのであって、むろん結果が奇跡的であったらそれはもっと歓喜するものではあるが…その奇跡は過程の中に仕込まれた何かによって起きるのである。
中川多理も川野芽生も、〈今〉という立ち位置で創作をしていて、そこに変化も進化も組み込み続けている。それは創造心が自動的に起しているようにも思う。ゆえに逡巡することも躊躇うこともなく(検討はしているようだが)創造がかたちになっていく。

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中川多理と川野芽生のコラボレーションは、自分にとって、久々に場を用意するだけの仕事になっていて…それは至福の時が訪れる予感になっている。できれば多くの人に、それぞれのスタンスで同時進行的に目撃、体験していただきたいなと感じている。

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