中川多理『白堊——廃廟苑於』~『『廃鳥庭園 PartⅡ』〜Petit(プティ)』へ。
中川多理・人形展『白亜 廃廟苑於』から数ヶ月たった。
パラボリカ・bisに小さな改造が施されて、その記念も含めて中川多理の展覧会を7月に開催する。
『廃鳥庭園 PartⅡ』 〜Petit(プティ)
『白亜 廃廟苑於』で展示されたPetit(プティ)たちを中心にした、『プティのパノラマ』展になる。
この展覧会には、
——ありあはせの布(きれ)をあつめてなんどでもつくつてほしいぼくのからだを(『人形歌集・骨ならびにボネ』川野芽生)
というもう一つの題名がついている。
歌と人形のコラボレーションによって歌集が連続して刊行される、中川多理と川野芽生の創作は、人形に対して歌が詠まれるという形になっているが、前回の『白亜 廃廟苑於』では、歌に対して人形が造られている。返歌のようにして。
今回も、歌に対して、返す人形が用意されている。そういったことも合わせて楽しんでいただけるような展覧会の準備をしている。
『白亜』の新作人形も披露される予定だ。
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中川多理の作品を構成している要素はいろいろある。
共通しているのは、人形であるということで、中川多理は、人形という表現のままに美術、芸術に認知されていくことを望んでいるのだと思う。今まで多くの若い作家を見てきたが、優れた作品や作家に対しては、アートというカテゴリーが寄ってくるもので、それが時代というものだ。
「わたしのからだは何でできている やわらかいところと、それから」川野芽生/『人形歌集 羽あるいは骨』に詠まれた、人形の[やわらかい]身体は、あるときから中川多理の得意とする表現となった。手の中でぬるっとずれる動物の皮膚と骨というような、誰にも表現できない、誰も表現していない感覚もあるが、今回は、比較的分かりやすい[やわらかい]身体の表現がされている。
[やわらかい]は、究極、人形がもっているかわゆきもの〈Petit〉への通底音のひとつで、肋骨を晒しているかのような人形の骨にも、やわらかさ、しなやかさがあって…もちろんそこに[かわいさ]もあって…近くでそれを体験できるような展示になっている。
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