わが日常茶飯 中原蒼二

夜想茶遊戯——ウラメシヤ通信 no.02

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『わが日常茶飯』に茶は出てこない。出てこないが、これから中原蒼二が食べ物向かって来たように茶に向かえたら良いなと思う。いろんなことに。

中原蒼二が生きてたら、僕は飲めないのに、カウンターにだらだらいつづけたかもしれない。今、バッハのカウンターやゴトーのカウンターにしがみついて日々を過ごしているように。

こんなことが書いてある。『あるとき、旨い!と思うスパゲティーは、すべからく、スパゲティーが上手く茹で上がったときであることに気がついた。そうだ極意は「茹で方」なのである。(中略)湯の中のスパゲティーは千変万化する。しかし、麺の中心に「一筋の意志」とでも命名すべき、くさやかな硬さを残さなければならない。と。たしかに

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昔、藤本義一が、物書きは一回で原稿用紙にぴちっと入れて、誰の手も入らない完璧な書き方をするものだ。と、言っていて、そういう完璧な姿を見せるのが、プロだったり職人だったりするだと信じていた。大分、長いこと。形成期にそう思っていたので、そして自信もないので手も進まないし文章が一番苦手だ。

茶に嵌ったのは、(おいおい詳しく書いていくが)そんな世界と逆のことが突きつけられたからだ。『わが日常茶飯』で中原は折につけ、絶対的ピラミッドの頂点を極めようとした料理界、その他のことに、そうじゃないだろうと、言っている。言っているというよりそうじゃない料理を作っている。

「茹で方」は茶で言うと揉捻とか火入れにあたる。紅茶もぎっちり揉捻してしっかり火入れしてマニュアル通り乾燥すると良いものができるのだが、一緒になる。そして全部、ちゃんとしていてもつまらないものが仕上がることがある。どんな葉かということももちろん大きいが……そのあたりはもっとおいおいに。

マツコが焙煎世界一を獲得したバリスタに話を聞いていたときにとき、好きな豆を覚えるよりは、好きな焙煎の色を覚えるのがいいかな……と言われていた。なるほどね。僕は下手だから、パスタはここぞと言うときはマルテッリを使うし、豆はエスメラルダ・ハニーだけど、勝負は、焙煎だったり抽出だったり、するんだな。と、改めて思う。そこに身体をはっていた中原さん。できあがり寸前のコツ、気合い、気持ち。あー美術も一緒だ。

『わが日常茶飯』を読み終えて中原蒼二さんに会いに行こうとしたら、だって鎌倉だし、大船だし、なにより『室伏鴻集成』の編集をしていてパラボリカに顔を出していたらしいので………室伏さんの踊りも大分、見たなぁ。背火の頃から……行こうとしたら、亡くなられたと。

パスタの話は巧く伝えられないが、その度ごとに変化を受けとめて気持ちを凝らすということだろうか……ちょっと違う……コーヒーだったら蒸らしたあとの一回目のさしで決る。こうやったらいいと言うものは、実はなくて巧いバリスタも毎回、味が変わってくる。そこが面白い。そこを受け入れられるようになったのは、最近のこと。まったく情けない。










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