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日々是徒然/歌舞伎は大丈夫か?いや大丈夫。十六夜清心(七之助・幸四郎)


 今月も歌舞伎座は客が薄い。幕が開くと舞台から冷たい風が客席に吹き抜けていく。棧敷席が空いている歌舞伎座もはじめてみる。
 [歌舞伎座第三部・花街模様薊色縫(十六夜清心)]清心・幸四郎/十六夜・七之助 上々吉の出来栄え。
 春信の浮世絵のような可憐な十六夜(七之助)遊女と見えない。一方、清心(幸四郎)どこかにちゃらめの優男。出だしから良くて、芝居に身をまかせっきりになる。心うつらうつらと戯曲を舞台に読みながら、清元の詩情を愉しむ。
 初役の二人。七之助は玉三郎に、幸四郎は仁左衛門にそれぞれの役をならったと…。確かに教わった役者の色が出る、風情も出る。十六夜は、元々は黙阿弥が粂三郎にあてがきをした。芸は良いが今一つの人気に、四代目小團次が黙阿弥に、工夫を頼んだ。黙阿弥は絵なりに客の気を引く場面を織り込んだ。その一つが十六夜の坊主の場面。これには、粂三郎の実の母親が文句をつけた。なので、場に出る時は、頭巾を被ってでる。父親の西心が頭巾をとると、「あれ、恥ずかし」と思い入れる。しかしそのやりとりの色気がかえって大評判になった、と伝えられている。
 坊主頭がだいぶ伸びて、ボーイッシュで散切り頭の十六夜。男が女形をして、その女形が男っぽいなりをすると、たまらなく色がでる。少女のような可憐な女が心中し、助けられて囲いものになり、かつ清心をおもって出家するのだが、生き延びて小悪党になっていた清心・鬼薊清吉に出会い一転連れ立って悪の道へ、そして白蓮をゆすりにかかる。場面ごとに刻々に変わっていく十六夜が、歳に応じて、男によって色を変える。七之助、絵なりのモンタージュのように、次々、変って見せる。
 一方、清心の方も小悪党ながら、悪役の見せ方は場面場面でいろいろにある。白蓮も清心も、その度ごとに悪の顔を見せていく。もともとに悪党ぶりをちらりと見せる従来の演技もあるが、男も女も相手と時と、そして年齢を重ねる度に変わっていくというのが、当世的に客の同意を得られるような気もするので、幸四郎/七之助の十六夜清心の演じ様、良しとしよう。
 結果、黙阿弥の戯曲が筋書きがすっきり良く分かる——度ごとに変わる演技、演出で…物語が実ハ実ハと転がっていく度に、鮮やかに風景が変わると、ピカレスクの味も出でる。良いモンと悪いモンが、いてあっての悪党物語ではなく、流れていく人生のうちに、やっぱり悪になってしまうのが納得出来る。
 白蓮、悪事がばれたときに「必ず身にゃあ附かねえから、堅気になろうと思うなよ、この正兵衛がいい手本だ。」というのがまたおかしい。堅気になるな悪になれと。
 それにしても歌舞伎の層の厚さは驚くべきで、高麗蔵さんのお藤が、品よく姿も美しく感心する。ふっとでてきて役に相応しく、かつ上品に演ずる。演技をしているように見えない演技がたまらない。役柄に相応しく懐広くすっきりした胸元の姿勢が、『十六夜清心』という芝居を締めていた。なんせ他の登場人物はみな盗人なので…品の良い演技もないと、悪の演技も栄えてこない。

さて、
 『十六夜清心』の出来に満足して戻った浅草のカウンター割烹で、ご飯を食べていると浅草歌舞伎を見に来たのか、関西の名門のS丈が、半玉さんを連れてお食事中。しゃべり声が聞こえてくる。「今、歌舞伎は最大の危機だよ。『ナウシカ』や『ワンピース』が百年残ると思う?ちゃんと古典をやんなきゃ。」「君の踊りを見たことがあるけど、もっとにこにこして踊らないと。僕たち役者も、型よりも気持ちで踊るんだから。」
 少なくとも『ナウシカ』は、スーパー歌舞伎よりも歌舞伎仕立てだし、菊之助が、思いあって時代を写して作りあげたのだから、絶対後世に残る作品だ。コロナもあって戦争もあって、ものの考え方や価値観は大きく転換しつつある。『ナウシカ』には戦争や疫病も描かれている。それをどうやって生き延びるか、今と未来を思う作品だ。平家や源氏の戦争を描いた時代物と一緒に、いやそれ以上にこれからの重要な演目となっていくだろう。
 踊りのこと——たしかに今の藤間勘祖さんが勘十郎時代に、歌舞伎の振付についてのお話しを聞いた。(歌舞伎は友だちの講座で)歌舞伎俳優ごとに振付の仕方は変えている。たとえば梅幸さんのような方には、どう踊りたいか、どう表したいかを決めてもらっての、振りをつける。役者さんの踊りは、おおよそ踊りの気持ち優先で振りをつけていくと話されていた。それはもちろん踊り上手の型も入っている俳優の話だ。
 京舞・井上流は圧倒的に型を先行させる。型が入りきってから心根を教える。「ほら、そこに月があるのえ。」そこに月があるつもりで振りをしても月があがらない人が多い。
 TVのドキュメンタリーで、坂東三津五郎が巳之助の舞台を見に京都に訪れる場面があった。ホテルに呼び出された巳之助は、入ってくるなり、「日常での足さばきが悪いから舞台でも駄目なんだ」と。思いだしたのは、ボクが台本・演出をしていた『アリスの長い午后』という、折田克子、泉閣士出演の舞台で、ダンサーたちはカンパニーの面々、20人ほど。彩の国さいたま芸術劇場の舞台大回りを砂が落ちてくる中、行列になって歩くというオープニングという設定だった。そのゲネプロを稽古場でしていたとき、折田克子の母親の石井みどり(石井漠の相手役でデビュー、現代舞踊協会の会長を死ぬまでつとめた)さんが突然、現れて、歩き方悪い、と、直し稽古というか、一から直すぐらいの勢いで、照明やさまざまなきっかけ確認をしなくてはの時間に、基礎稽古になった。演出をやっていたボクは、困ったな状態でもあったが、ある意味、そうだろうな…と、納得もしていた。何時間も歩く稽古が行われた。石井みどりは、ボクの作風を摑んでいて、そのイメージも曲も分かった上での歩き稽古だった。石井みどり・折田克子のカンパニーは、モダンではあるが、重心をしっかりと下に置く、石井漠流の歩きをしていて…でもそれは型ではなくて、重心と足の出し方というものであって、もちろん曲想や作品の場面によって見える形は変わってくる。ボクは振付はできないので、代わりに出の重要な[歩き]を叩き込もうとしたのだ。気持ちだけで踊れる踊りはない。
 ふとS丈のいる今から30年以上前の風景を思いだした。京都の磯村さんという歌舞伎バーで、やっぱりカウンターで舞妓さんに向って、演技の新しい工夫を思いついたと披露しているところにであった。「お父さんにまた怒られますよ」(京言葉で…)と、若い舞妓さんにたしなめられていた。あれから何も変わっていないんだなと…歌舞伎が危機に見舞われているのはむしろあなたの…。まぁやめよう。

 歌舞伎はどんなことがあっても大丈夫とのりこえてきた。渡辺保も当代團十郎を絶賛しながら、襲名披露で歌舞伎はまた盛り上がるとネットに書いていた。そう言えば、團十郎の新橋演舞場は満員らしい。国立劇場菊五郎新春公演も最終日も、仁左衛門一世一代も、チケット予約をしてみると客席はすかすかだ。
 渡辺保の言うように、歌舞伎は團十郎によって大丈夫ということなのだろう。しっかりと歌舞伎を見て、歌右衛門を論じてきた人が言うのだから。ジャニーズと、子供の可愛さを全面にした戦略歌舞伎をプロデュースする人の有り様が、これからの歌舞伎を動かしていく。だから歌舞伎は大丈夫なんだろう。
 お客を集めるのがすべてではないが、お客を集められないのは問題だから歌舞伎に挑戦的な十三代目團十郎の勝負は、決着がつきつつある。戦いは拮抗していない。実に一方的だ。
 関西の名優の頭の中も心配だが、大丈夫・歌舞伎は團十郎にまかせて、ボクは、そうでない松竹や評論家や團十郎の[歌舞伎]でないほうの、今のお客に棄てられた歌舞伎を偏愛していこうと思う。そこはたしかに駄目が吹きだまっているかもしれない。しかし、駄目になってしまっているからこそ、芸を輝かそうとしている役者たちもいる。頽廃好きのボクは、すかすかの劇場に足を運び、至極を見つけ、拍手を送ろうと思う。大丈夫な[歌舞伎]からではなく、この閑散の場からの未来を応援したい、そこに同調したい。危機こそ未来。廃虚に萌芽。長いこと仕事しているとそんな風に本気で思う。

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