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 『死にたいのに死ねないので本を読む』吉田隼人/中川多理 Favorite Journal

もう死んでしまうかもしれないのに、まだ本が読めない、僕は…。読書論の本を秘かにたくさん読んで、読書して、相変わらず、読めていないと踠くうちに…それでも量が自信めいたものになったりもして、ほんの少しだけ、目が肥えたような気もするが、一種の錯覚であることに気がつく。
 気づくようになっただけまだましというものか…。

 もう少し読書の範囲が広がらないものかと、思っているうちに、「時評書評○豊崎由美」にであって目の前が開けていくような気にもなって…来年の読書計画は、『事情書評』の未読書(ほぼ全部だけれど)に従って決めた。だけれども豊崎さんは、本は選んでくれたけれど、本の読みかたまでは指南してくれない。作家のラインナップからの選び方とかは参考になる。それは大きな意味の読み方でもある。でも、初心者にはもう少し指南とかヒントがいる。どうしようかな… そんな時に、中川多理 Favorite Journalで、『死にたいのに死ねないので本を読む』/吉田隼人を見つけた。この函には、『霊体の蝶』という歌集もある。蝶を集めているので、早速歌集も手に入れた。

 『死にたいのに死ねないので本を読む』
本を開いてすぐの見返しに、

 吉田隼人

死にたいのに
死ねないので
本を読む

絶望する
あなたのための
読書案内

 草思社

 と、ある。
この言葉は、吉田隼人が書いた違いないが、下に草思社の記名もあるので、若干のセールスコピーも入っているような気がする。なぜなら、この本に書かれている文章…死にたい、死ねない、本を読む…ということがこの本が生まれるきっかけはそうであったかもしれないが…死にたい、死ねないというような青春を送ってきたと書いている吉田の言葉を読み手として受け入れた上で、そのことと、[本を読む]ということが繋がっているようには思われない。
 何故かというと、本を読み、本の中身を受領できるということは、そんなに簡単ではないからだ。吉田は名だたる読み手として知られている評論家よりも、何歩か深いところまで読めている。もの凄い才能である。だから、帯にもある[絶望するあなたのための読書案内]は、絶望する…それが死の匂いがするような絶望…読者/わたしたちの役にはたたないのである。おそらく。
 せいぜい、本が読みたくても身体に入ってこないと絶望的な気分になっているぼくや(あなた)——ぐらいが読者の対象で、ここに上げられている本や、アプローチの仕方は、[並大抵]のものではない。

 ただし、死ねない私である吉田隼人が読んできた本についての本であることはその通りで、死にたいのに死ねないと思っている人間には役に立たないような気がするし、ましてや死にたい人間を止める読書案内ではないと思う。吉田隼人は、本を読む才に恵まれている、本の読み方を早くに体現している人の、読書の方法、そのドキュメントである。ただし書かれている吉田隼人の青春の生きる葛藤はただならないまさに死の淵にあって、その人が読んだ読んだ本、その自分で突き詰めている生きている[死]を読書の接線…僕は本を読むための切り込みを接線と読んでいるが、吉田は架空線と読んでいてその感覚をまだ摑めていないが、素敵な言葉だ…として本に分け入っている。

 僕は来年の読書ラインナップを豊崎さんと同時に、吉田隼人のこの本からも作ることにした。

 ちなみに吉田隼人は歌にも才があって
第一歌集『忘却のための試論』の帯に——歌作とはぺるそなを外す直面ひためんのわざ。歌の神に選ばれた俊才に切に願はくは、「歌のわかれ」を口にするはまだだしも、輕輕に實行に移されざらむことを。——高橋睦郎
と、書かれて——それはわりあいと本音からでた頌であるように思う。ひためんという能に於ける私の顔、仮面の顔という奥義は、在る意味、短歌に於ける〈私〉の在り方に繋がる。私で歌うがそれは現実の私ではない歌の私であるというような…。

 死にたい私の[し]が、歌なり読書論著作の本という[し]の創作をすることによって、かろうじて薄葉紙のような虚構を確立することができ、それが現実の死を救い、創作の位を高めるのだとしたら___それはただただ、本が読めないなどとほざいいている、才ものたちに使いこなせる方法ではないということを、本を捲ってすぐに悟らされてしまう___危ない本であるということを、先ず警句として述べておきたい。

 少し身から放して、読む分には、新たな読書の[技]を獲得する…架空線を手に入れる…それが無理でも、何かのよりどころにはなるだろう___その位の読書技量本であることをまず知らしめたいと思う。

さて、本文だが。
読書方法についての本であるから…読んでもらうしかない。技量の低い者が、高位にあるものを解説するのは野暮というよりも失礼にあたる…ので。

本は、大きく二つに分かれていて、
Ⅰ 記憶 十二の断章 と Ⅱ 書物への旅 批評的エセー に。
自分が、読んだことある本や、読み込んだ本はそれほどなく…『雨月物語』『砂男』くらいなので、そのあたりを紹介して…あとの紹介本は、来年の読書の愉しみにしたい。できれば全部読んでみたい。吉田紹介の手を借りて…。

 このnoteでもしつこく書いてきたが、フローベールやプルーストが、自らの肉体的死を我が物として実感したときに、代表作が纏まったことと、自分がようやく本を少し読めるようになったことは、関係がある。死の実感という身体を通じて、フローベールやプルーストが読めるようになったのだ。勿論、本の読み方は身体を通じてだけではない。もっともっと人の数だけ読み方はあるだろう。
 自分にも少し合っていて…死とか老とかの身体によって読む——に少し近い吉田隼人の「死ねない」本読みは…若くして「死にたい」に取り憑かれた感覚を補助線、接線にして…また私の読書の視野を拡げてくれるだろう。

PS
 この本を読んでいて、吉田隼人本人が意識しているかどうか知らないが、二本の接線を見つけた。一つは人形的な線で、澁澤龍彦や種村季弘が先人たちの人形に関するうわさ話を収拾した、その先を一歩も二歩も、読書によって踏み込んでいるところで、別に澁澤龍彦や種村季弘を信じていたわけではないが、踏んでこなかったあたりを、しっかり切り込んでいるというところ——もう一つは、遥か彼方からの宇宙線的接線であり。
 吉田は[蝶]を引いている。
この蝶は、モダニズムの[蝶]とは、異なる蝶で、身体/オブジェをもっていない。いや持っていないのではなく、私のありようが違っていながら、私を基点に読む、現代の歌にも似て、蝶は蝶の姿をしながらまた詩歌のなかで、別の表現力を発揮している。そのあり様を少し知りたいと思う。それが、歌が一人称をもって再生する(私の在り方の違い)可能性であり、また歌や詩を成立させている、詩情/抒情(このあたりまったく分かってもいないので、仮説として書いている)の変位、その可能性でもあるような気がする。歌は読書よりまだ認知力が低いので、合っているかどうか分からないが、その新世紀の抒情をもってポエジーをもっている歌人が何人か居て、その歌を身体目一杯に感じられるようになるのも、また来年の計画としたい。(誇大妄想に近いが…)

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