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山尾悠子と中川多理を巡るいくつかのメモランダム。「小鳥たち、風のなかの」山尾悠子

いつの頃からだろう。山尾悠子が空中浮遊術を身につけたのは——。

実のところ、僕は山尾悠子のそんなに良い読者ではなかった。なので術が、もともとなのか、ある時からなのか、今なのか…を知らない。東雅夫が『幻想文学』で、礒崎純一が国書刊行会で幻想の小説に邁進し、山尾悠子を再発掘していた頃——、たぶん、僕は寺山修司や土方巽、ヨーゼフボイスに夢中で、現場を駆けずりまわっていて…山尾悠子の存在を朧にしか覚えていない。申し訳ない。

コトバを空中浮遊させ、風に漂わせ菌糸の触手をのばし、[そこ]を見いだすと、そこにコトバは繁殖してまた叢をつくる。文字を使う創作活動としては、稀有のことなのではないのか…。文学のことを殆ど知らない私である。確証はない。

山尾悠子と『夜想』を紡いだのは、中川多理の創作の欲動…。そのあたりのことは『小鳥たち』にも『夜想山尾悠子』特集にも山尾悠子の浮遊の目で語ってある。…さて『新編 夢の棲む街』が編まれ、山尾悠子と中川多理の本と人形を渡る物語も一頻りの形で、終章を迎えてた。と、思ったときに掌編「小鳥たち、風のなかの」がおくられてきた。

『新編 夢の棲む街』とパラレルに、本に収まりきらない人形たちとその写真群が、中川多理写真集として出版される予定になっていた。清水良典、金原瑞人、川野芽生らが文章を寄せる。いずれも中川多理の人形にも魅せられた書き手たち。そこに山尾悠子の掌編が写真集のために送られてきた。

『角砂糖の日』の付録として「小鳥たち」が書かれたときに、今の経過は誰も予想もしていない。「LIBRAIRIE6」に於て『角砂糖の日』を新版出版したときに、中川多理は山尾悠子と知己はない。一ファンとして本を求めサインをもらっている。空中浮遊している作家から見えている世界と、読者とファンと出版者と人形作家とでは、おのずと視点は違う、見えているものも違う。話とは違って、中川多理は、許可を得ないでトリビュートとして『小鳥』は製作され発表された。おそるおそる連絡をとると、喜んでいただけ、そして姉と妹のように交流がはじまった。

人形に文章が寄せられ…それは小説の形をした独立の物語?…山尾悠子に物語は違うかもしれない…ひと塊…小説の章にあたるもの…またそこから人形が派生する。何度かのやりとりは、『小鳥たち』という本に纏まり、ゲラの段階で初見した老大公妃が、また中川多理の手で人形になるという奇蹟的なことが起こり…中川多理の視点では〈起し〉になる。人形製作このような短期で行われることはほぼない。そしてそのクオリティと質感。生きているような死んでいるような…それはまさに人形が近年かかえているテーマ、眠りの姿をした生と死を同時に持つという…しかもそれが老いた姿をしているというあり得ないこと。少女であるから、幼女であるから…死から遠いはずの生が、死んで…残されたものの生の執着によって生きているかのように見える姿————。そのモナリザの微笑みのようなアンビバレントを美として、老大公妃で表現している。老大公妃の肌は老年あるいは屍体寸前の様相をしながら、若き妃の欲望に満ちた生き生きとした肌ももた持ち合わせていて、まさに眠っているかのようで…展示したとき、人形の侍女たちは、ひそひそと噂をしながら、起さないように怒らせないように声を顰めたものだった。

その頃に書かれたのが『翼と宝冠』。プロローグでもエピローグでもない小片。ドローンから、迷宮庭園の庭師の森に隠した遊び小屋を見つけ、そこに宝物を隠すように…小片を点在させていく。小片はしばしそこに滞在したのちに、コトバだけがふわふわと、あるいは勢い良く、虚空に向かって墜落をはじめ、空中楼閣に…コトバ織りなす雲のような、散る花びら…叢のような、そして時には天空に向かって降る羽毛のような…コトバと言葉でできた小鳥たちの物語。『角砂糖の日』『小鳥たち』『翼と宝冠』そして…新たに連なる度に、総体と細部の印象と本質が変異する。一冊の本におさまらないコトバたち、小鳥のような…。

『新編 夢の棲む街』もまた今、『小鳥たち』を巡って、コトバと人形が絡むように、編まれている。山尾悠子の解説と他誌に書かれた、夢の棲む街を探す旅のような…『漏斗と螺旋』を織り込み、川野芽生の文、中川多理の人形を呼びこんで————。そして40年前に書かれた『夢の住む街』を一変させる。

これは如何なることなのか? 空中に浮遊すれば見えること分かること。コトバはいま物理的空間を所有したのよ。瞬間移動のテレポートも。

誰かが空でそう呟いていた。


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