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『Lilith』/川野芽生について

好きな歌をあげていく。

○「LIlith」

借景園

羅の裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし

廃園にあらねど荒ぶれる庭よわれらを生きながら閉ぢ籠めて

取りかへしのつかざるものを産むまへに悲在の森の辺へとかへれよ

竜頭をうしなふ
しろがねの篩にこゑをふるいわけしづけきおんを語らむとせし

影としてひかり降りくる林道よ睫毛のごときもの敷きつめて

春一日雛人形の役をしてそれより魂を失へり

みづからの竜頭りゅうずみつからず 透きとほる爪にてつねりつづくる手頸

水の真裏に

夜のもつうすき瞼は下ろされてこよひわれらはその外に立つ

憂愁をかつてきみよりならひしにきみにはなれず グラスを仕舞ふ

驟雨れ骨格がさきに出来上がる建物の前すぎぬ 痩せゆく

気候と鱗

疎まれし少女時代を聖痕となしゐしに雲は日ごとれくる

めつむれど降るいなびかり 熱はかる手のように来て夢にまじりぬ
六月のあなたの痛みを牽きてゆく海馬、その荷へ花を放らむ

薔薇の瞼

幾重もの瞼を順にひらきゆき薔薇が一個の眼となることを

ぶらんこの支柱に凭れ少年は内を流るるきしり聴きをり

冬の王位
のうちに根雪のごとき睡たさの、はるけき森へ

炭酸と鸚鵡貝

照準を定むるやうに差す傘へかなたより落ちきたる 撃ちしか

炭酸水うつくし 魚やわたくしが棲むまでもなく泡を吐きゐる

トンネルが裏返るやうに夜が来てわたしは葡萄の種を吐き出す

はうるのをきみがわすれた死者たちと夜通し踊る(来ない)夜どほし

凌霄花
やはやはと海面発火する午後に少女は左目をなくしたい

天球儀ほどの重さのをかかへ人が死なない日の昼下がり

Boys meets girl

熱帯魚死にし朝より唾液にはいつも微量の塩素がまじる

制服のむれへ春荒らしのたびに少女のみ輪郭がくづれて

少女とはことなる腕をもつ人に向かひあふとき切岸ふかき

傷むほどに透度をあげてゆく髪を曳きつつゆけり春の高台

もほのひかる

星座がみえる人の眼して仰ぐ人 見えねばわれのもほのひかる

落日の翼

あかときの厨のみずをくくむとき雷鳴はありわがうちそとに

地下書庫に体熱を奪はれながらひとは綴ぢ目の解けやすき本

書架のあいを通路と呼べりこの夏はいづこへ至るためのくるしさ

客観で詠んでいるけれど、主観も状況もちらりと感じて、珍しい。
本の堆積する場所で心の在処をひそと見せる。

アヴァロンへ

聞きわけて雨は降りくるあきらめて木々は濡れゐるその下をゆく

天使なるその楽人の横がほに蝶の口吻のごとき古楽器

油画覆ふ硝子に須臾うつり夢より夢をわたるわれらは

海といふ肌理あらきものを均さむと波れて海を覆ふに足らぬ

幻獣のかたちを都市にさらしつつわが呼ぶまではそこに在れ、雲
Le Grand Cahier

天上に竜ゆるりると老ゆる冬われらに白きいろくづは降る
不死鳥にふいに熟柿のにほひして鳥の死にどきめぐり来りぬ

吾はたれに天空の火をねだりしか掌に黄金の葉は残りゐる

満ち欠けを止めてしまへる昼月をはづしてばらばらに砕く役

たれかいまオルゴールの蓋とぢなむとしてゐる われにきたるねむたさ

転身譜

薄明に活字痩せつつ亡びたる透明獣の名か、たましひは

片割れよ夢をみるたび夢にれ角や翼を得てわれを去る

うつつとは病めるまぼろし手をのべて瑪瑙をむまなづきへかへす

春よわれらに再演あらば幻獣と狩人として巡り会はむを

舞曲

舌の上にさむき火のごととある薄荷キャンディー いつか棄児と呼ばれて

たましひはいくたびもひとを死なしめてみづうみの面にひらかるる蝶

卵生の死者ひしめきて窓を打つ春は透明なるもの満ちて

街は火を身籠もりゐるに朝なさな空の高みを鳥は離れ来

賭博師の用ゐる仕掛け銀貨なり投ぐるたび表ばかりでる月

転生のたびあをまさる空にして果ては黒白のいづれか知らぬ

ベオウルフの春

青銅の森のやうにも竜ねむりかつてその森よりわれら来し

相討ちのわれらのかばねいだきあふ樹や伝承の苗床として

老天使

丘のに老天使はねをひろげゐてさくら、とひとはそを指さしぬ

空頭

ふかぶかと窓したりき昼空を渡る熾天使(してんし)旅団に触れず

鏡面の腐蝕のごとき昼月を鳥ぎり飛蚊症の過ぎりつ

ラピスラズリ

瞼なき魚匿うをかくまひて灼かれしか瞼なき海は眼を逸らざる 

氷もて微熱をさまし天国の不在証明アリバイのごときこの肉体は

石壁の蔦のやうなる骨浮きてあやふし少女期より痩せゆく

Lapis-lazuliみがけりからだ削ぎゆかばたましひ見ゆ、と信じたき夜半

ねむる——とはねむりに随きてゆく水尾みをとなること 今し水門を越ゆ

妖精の翅降るありたみづからの翅まじれるを知りてあゆめり

朝なさな竜相食みて墜ちゆける空の翠の炎えたつばかり

狂恋を逃れむがため木となりし少女らならむ花のなき森

物体が天使のごとく透くとふ火を受け容れて火となる須臾に

殺害をもう怖れずに済むという昧爽のマリン・スノウなるかな

稲妻は瞬間の蔦 つかまへてかなたへの伝令とならむよ

ひとの身につかのま碇下ろしゐる魂よわが湖底痛めり

Lilith

馬手と云へり いかなる馬も御さずしてさきの世もをみななりしわが馬手

荷車を曳く馬の背にみちてときに人とは零るる林檎

うつくしき沓を履く罪 踊り出す脚なら伐れ、と斧を渡さる

はなびらに顔を喰ひ荒らされながら運河走れりゆめ澱むなよ

ひとつきりの月のいくどの蝕を見る両眼にそのくづれやすさは

立ちくらみをさまるまでをたちどまりわれは虚空に吹かれゐる草

ねむらざるひとびとは来て海の襞ととのへはじむ 二度とかへらぬ

つきかげが月のからだをるる夜にましろくひとを憎みおほせつ

乱数歴

眼は一生ひとよひかりの供物 荒ぶれる碧空をしづめむと痛めり

君子蘭裸身をさらす春にして世界ぢゆうの王たちの乱心

火想くわそう

日傘して来たる空中庭園にみなづき青薔薇の鳩羽色

上昇と引きかへに朱を喪へる月よおまへも瞋を去りて

投光器へとあゆむときみづからの影にて星々をさえぎりぬ

竜のくちべに

天使にも竜にもあらぬこのからだ銀のヒールの台座に載せて

灼べき羅馬

暴力の記憶を よあけ一面の蓮ひらくのを見まもるやうに

誰か言へりひとは死ののち白鳥に喰はするための臓腑を持つと

____________

 ずいぶんたくさんになった。自分なりの印、○とか◎とか°とかをつけているけれど、それは優劣ということではなくて、入っていける歌であるとか、わかるけれど共感ではないとか…。それは姿勢だとか、哲学に近いとか…。そのような分けがしてあって、その記号を取っ払って、ここに挙げてある。順は歌集の順。最近、歌や句を読むときに、いろいろに印をつけながら読んでいる。『Lilith』は葛原妙子の全歌集よりも多く印がついているのには、少し驚いた。

——
中川多理の人形をじっと見つめる人のなかに、川野芽生がいたことを知るのは、書き手として注目をしてからだいぶあとのことだった。夜想『山尾悠子』特集で若手の編集員に推選されて山尾悠子論の書き手として登場したのがはじまりだった。
 切り込み線がとてつもなく、山尾悠子の急所に近いところに切り込まれていた。山尾悠子の書くものに惹かれていて…おそらくだいぶ前に、総ての作品についての論が書かれている様であった。間違いなくその全作を読み込んでいる。読み通したのは二度や三度ではなかろう。好きでも切り込む。姿勢が戦士のようだ。
 山尾悠子は、若い女性の創作者に、頌られるのを…(不遇な時期もあった自分の創作活動を思い返してなのだろうか…)自分のご褒美にしているようでもあり、もう一人のお気に入り中川多理とともに…川野芽生は、山尾悠子の評価高く才能を認める作家として知られていた。自分は、まだまだ作品になじんでいなかったし、歌集を購入してさらりと目を通したぐらいの頃だった。その頃聞いた言葉が印象的だった。
 山尾悠子が上京すると、編集者の輪の中にいつも川野芽生の姿があり、自分が微笑ましく遠くで立ち会っていると、「私には肉体がない…」というような発言が聞こえてきた。本人に確かめた分けではないので、耳ダンボの空耳かもしれないが、強く印象に残った。まだアセクシャルであるという主張をしていたことも知らなかった。知らないままに『Lilith』を読んだ。その影響は、今も残っているかも知れない。
 編集者たちの輪の端っこで話を聞いていると、川野芽生は、パラボリカ・ビスで、中川多理の人形を見ていて、どうもパラボリカ・ビスにも少々興味をもっているようだった。あるとき、球体関節人形ストッキングを身につけて来られて、「それは手描きの上野さんの?…」と質問すると「はい、わざわざ買いに行きました」と答えられて…「Koh Ueno/球体関節ストッキング《夜想モデル》」ではなかったけれど、とても似合っていた。その頃は、ビスを仕舞っていた。十年の踠きのあとに、真ロリータさんが、登場したことに心から驚いた。自分の十年も無駄ではなかったなと少し嬉しくなった。(このあたりの話はここでするものではないのでまたどこかで…)
 川野芽生の小説を読み、歌集『Lilith』を読み、そして人形好きの(中川多理さんの)ロリータ服の川野芽生に対面していると、時代が起した亀裂に向かっている創造者の[開拓]や[新規]を感じた。(肩ひじ張らずそれは自在にやっているのだろう…)従来の言葉や感覚や価値観では捉えられないものをもって活動する。燦燦と輝く、それでいてどこか儚いような危ないような感じを受けて、久しぶりの感じだ。
 ところがやっぱり、身体性の欠如と、文学詩歌との対話が多く、もっとも自分から遠いところで成立している歌で、そのことで立ち入ることすら、難しく思えた。もう少し…接線をさし込める角度くらいは掴みたいものだと…少し悩んだ。いつものように、仕事を一緒すれば一歩は踏み込めると、いつもの反射神経的発動が起きた。耽読できるようになるまえに、頼みごとをしてしまった。(ここから先のことはまた別のところで…)
 前近代的な短歌の[私]、そして最近の棒立ちの日常的な[私]が排除されている歌であることは、すぐにつかめる。さらに〈私〉の肉体もなく、恋愛もなく読む歌を詠み、これだけ人を惹きつけるのだとすると、そこには現在、次世代の表現の[新規]がある。ぼくはこういうところに徹底的に弱い。
 さて『Lilith』。
帯にアセクシャルによってハラスメントを受けたことと関連しているような歌が引かれている。
 harassとは猟犬をけしかける声その鹿がつかれはてて死ぬまで
この歌で、ふっと思い起こしてしまうのは、ボッティチェリの絵で、背景に森が描かれているデカメロン題材のもの数点が思い超された。その絵は、松井冬子の被虐の動物=自分に繋がる絵でもあって(自分にとっては)…被虐は苦痛でもあり怒り反逆でもあろうが…そこは創作の発起点でもあって、ハラスメントという点からすると、複雑な様相を照している。
 自分は、ずっと製作の現場にいて、さまざまなハラスメントの複雑な立ち位置を見てきたし、また体験もしているので…自分が受けたことも(もしかしてしたことも)一人称では受け止めていない。川野芽生のハラスメントについての短歌は、一人称無限視線のような…〈私〉基点ではないしまた客観や風景でもない。言葉のなかで、人称は動物であったり、〈声〉という顔の見えないものに位相している。あくまでも〈~について〉であり〈とは〉という言葉説明のようになっていて、修羅があるとしても血流れる肉体のない、絵のようになっている。私が感じられないとか、感情がないとかの云いようの対極にあって、ここには一人の個人のことでしょと、絶対に云わせない決意のような静寂がある。
さて、歌につけたメモは、歌についての言葉ではなくて、歌から受けた、…自分がそこから反応する感覚のメモである。いつか~のではなく、~がとれて歌のメモとなれるように、何回か改訂できれば、人生の本望だ。今はこれ。

◎朝なさな竜相食みて墜ちゆける空の翠の炎えたつばかり
 
竜が龍でなく竜なので尻尾を感じる。その尻尾は戦闘モードで絡みあいそうな…予感がする。竜の色は何色なのだろうか翠の炎だから…もしかして。

◎片割れよ夢をみるたび夢にれ角や翼を得てわれを去る

川野が片割れとか、君、とか云うときに、その向こうにある/いるのは誰か…いやなにか。人のような、いや人でもないかもしれない存在は、限りなく透明な存在に思える。そしてその片割れとの邂逅も永遠でなく去っていく。
ところで、何かを得るときには、代わりにさし出すものがある。共犯とは、相互にそれを覚悟していることの謂いであり、それは透明な孤独をもって保証される。川野は生まれながらにそのその素養を抱いている。

◎取りかへしのつかざるものを産むまへに悲在の森の辺へとかへれよ
 
森は川野芽生の歌に屡々あらわれて様々な機能と貌を見せる。川野における森は逃避場所の図書館のようでもあり…図書館が自分の退避する現実の場であるとすると、そこからつながる別世界、しかしそこは人外たちが跋扈する。本の、文字の彼方になる森。そんなことをいつも想像する。その森は此の歌ではどのような貌をしてどのように機能するのかと。

◎影としてひかり降りくる林道よ睫毛のごときもの敷きつめて
 
モノ派の自分としては風景がはっきり見えてくると、歌に這い入る可能性と道を見つけることができる。ここではまさに林道を使って私は森のような処へ入っていく。柔らかい接線を置く。

◎春一日雛人形の役をしてそれより魂を失へり
 
雛人形は、男親の、家という制度のハラスメントのオブジェであると常日ごろ、だいぶ以前より思っている。そして問題なのは、家に納まっている以上、母親という女性もそこに加担していることになる。
 女性をものとして贈与する形体の婚姻に付属している人形である。雛人形の貧しい身体と、御所人形のふくよかで大らかに見える身体との差は、決定的な問題を含んでいる。
 この設定で女性たちは決して人形の役をしてはならない。むしろその人形を破壊すべきだ。雛祭りは拒否して立ち会わず、それがまず第一歩。
 だだし人形に纏る現象は奥が深くて、一筋縄ではいかない。ちなみに、わたしの飼い主だった経営コンサルタントは、雛の日に、少女たちを集めて膝に西洋ドールを抱かせて、それを見るのを愉しみにしていた。もちろん雛壇もあり、ベルメールもあり、四谷シモンの人形、そして工藤哲巳の首もあった。すべてが人形の雛祭り。そこにはハラスメントを越える、人形の魔境が成立していて、これはまた別の話…どこかで川野芽生の意見を聞きたいものだ。ばさっと切られるかもしれず、それはそれの快感。

◎みづからの竜頭りゅうずみつからず 
透きとほる爪にてつねりつづくる手頸
[竜頭]と[手頸]はこの歌の離れた処に位置して、二つの言葉は少々叛乱しつつ呼応しているのに惹かれる。
この歌の作者に、竜の頭(りゅうとう)はあっても、時やもろもろを調整する竜頭りゅうずはもともとにないだろう。つねりづづくる のは、何故と訝しんだりするが。理由はないのだろう。ぷちぷちを潰し続けたり、瘡蓋を掻き続けたり…結晶のような鱗をつねり落としているかも知れぬ。またあるいは…。

◎夜のもつうすき瞼は下ろされてこよひわれらはその外に立つ
 こよひわれらは——と川野が示し合わせてみせる[われら]というとき、人ならむものとの共同を感じる。ここに恋愛も性も肉体もないので、言葉はそのままに自立して掲げられている。[われら]綴じられた瞼の外で、綴じた瞼をもつものの側にいるのか。われらは、夜を共闘しているのか。風景は浮かんでこないが気配が忍び寄る。

◎憂愁をかつてきみよりならひしにきみにはなれあず グラスを仕舞ふ
 
ここではきみ。短歌で使われている[きみ]とは少し違えて思える。憂いをならったのは誰かと推測するよりもきみにしてもわれらにしても、その相手は人としては見えてこない。そこが良いところ。[きみ]にも肉体はない。いや肉体を喪失させ、透明なグラスのような存在にしてそこにある。


◎疎まれし少女時代を聖痕となしゐしに雲は日ごとれくる

なし/ゐしとぐっと込める、あれくるは、荒れくるを何となく背後に抱いていそう。自分が聖痕スティグマという言葉を知ったのは、だいぶ年齢もいった頃で、フランチェスコの托鉢巡礼をそのままなぞった旅をしたときのことだった。(修道院史を専攻していた父親とともに旅した。一回きりの)スティグマは恩寵であるべきありがたいものだけれど、ここではどうなのだろうか。私は、聖痕とは、負を聖とする力学なのだと思っているが、川野はそうではあるまい。しかしながら…大きな意味で、狂う持続力をもらっている存在かもしれない。言葉がもつ本来の枠を、言葉が強烈に肉体を呪縛する、その縛りをするりと逸脱して、川野は言葉を解放し自在とする。

◎瞑れど降るいなびかり 熱はかる手のように来て夢にまじりぬ
 
風景として在るいなびかりは、また夢にまじると、読んでも良いのだろうか…。ともあれ、自分は誰かに手を翳すこと、この歳までなくて、もしかして翳されたこともなくて、孤独である人も、少なくとも独りの手があることを羨ましくもおもう。


◎六月のあなたの痛みを牽きてゆく海馬、その荷へ花を放らむ
 
海馬は頭脳にあって恋愛、一目惚れを生成する装置として知られている。なかなか問題な装置なのは、その一回を深い運命的な記憶して持続させ、なおかつドメスティックなのところまで発展させる。ここでは、言葉の遊戯領域に少し近いのかもしれないが、意外と…海馬に一目惚れの代わりに花を放られたとき、痛みを牽いていくとき…花と痛みの危険な愛が、発生する…という本来の海馬として読まれているのかもしれない。

◎ぶらんこの支柱に凭れ少年は内を流るるきしり聴きをり
  
ぶらんこを鞦韆という漢字を使わず、平仮名にしたところが、気に入っている。少年と凭れという組み合わせだけでも、もうフェイバリットになるのだけれども、そこにきしりが入るともうたまらない。


のうちに根雪のごとき睡たさの、はるけき森へ往くいつの日か
 作者は森を読むことが多い。


◎照準を定むるやうに差す傘へかなたより落ちきたる 撃ちしか
 
言葉遊戯や言葉について、あるいは川野芽生のハラスメントについてのも良いが、幻想の風景から何処かへ(その何処かが分からないところがぞくぞくする)一歩踏み込んでいるものがさらに好き。踏み込み先は、時に宙のこともあり、いやしばしばか…意外性と透明性が保持されている。


◎トンネルが裏返るやうに夜が来てわたしは葡萄の種を吐き出す

解釈とかそういうことなしに(元々解釈しないしできないけれど…)すっと入ってくる。向こうから。

はうるのをきみがわすれた死者たちと夜通し踊る(来ない)夜どほし

なんとなく雨月を思い出した。

◎やはやはと海面発火する午後に少女は左目をなくしたい

なくした――のではなくてなくしたい――というところに惹かれる。我々の時代、出来ないことでも、決意をもって[左目を失す]だったのだ。翔ぼうとしているが、肉体は地上にあり…そう私は肉体派なので…川野は肉体をもたないので、やすやすと何処へもいける。まだいっていないけどいっていないときは、なくしたいと希望を云う。言葉はその分だけナイーヴに機能する。そんなことを思いながら、私は、やはやはと海面発火する午後に、眩暈を覚えるのである。

◎天球儀ほどの重さのをかかへ人が死なない日の昼下がり

そう人は死なないのだ。作者の川野も死なない。人が死ぬというのは、人に言い聞かされ見るからそういうことになるのであって…普通は「死ぬのは他人ばかりなり」ののである。死は、それを身体が意識するときまで存在しないのだ。人の死なない日の昼は、重さも光も消失する。私はそんな風にとった。(川野は違う風に詠んでいると思う。)天球儀ほどの重さの…で、ぼくは大好きな、胡桃ほどの脳髄もてり~ではじまる歌を思い出した。まったく似ても似ないのだけれど、いい歌は、良い踊りが踊られるときと一緒で、立った一瞬で人を魅了する。

◎あかときの厨のみずをくくむとき雷鳴はありわがうちそとに

雷鳴はの[は]がなんとも言えず好き。雷鳴がわが裡にある。そとにもある。良いなぁこの感覚。


◎転生のたびあをまさる空にして果ては黒白のいづれか知らぬ
 
[転生]で先のこと未来のこと、死んだあとのことを歌っているようだけれども、[今]——果ては分からぬけれど…と、何度でも転生してあをまさる空に——という——むしろ現在形の覚悟みたいなものを感じる。

◎丘のに老天使はねをひろげゐてさくら、とひとはそを指さしぬ
櫻好きの私は、もしかしたら此の歌が好きの最上階かもしれない。桜はたくさんの歌にうたわれているが、男しょうが強くて好きではない。西行の歌とかね。(昔は好きだったときもあるけど、今は嫌かな)
櫻は「うあはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在処ありかおもほゆ」を西行の何十倍も高く好きと思う。何ものをも思わさず、ただ[銀]を思わせる展開というのか[まわしっぷり]が素敵。銀の幻想に耽るなんて早々できない。
川野のひとはそを指さしぬの[ひと]は、人格の存在しないひとであって、この[ひと]が入っているのが、えらく気に入っている。そして老天使。この老天使は、文学にでてくる老天使とは姿違って…いや老天使は姿を持たない、受ける人の感覚のなかに、〈老天使〉として射し入ってくる。


____________ここまで書いてから、いくつかの評論を読んで、将棋の感想戦に入る。自分は、ゲームで攻略本をみない、観劇で先にパンフを読まない。歌を読むときに、先に評論は読まない。たとえそれがどんなに手強そうでも。歌に敗北するなんてなんて素敵なことじゃないか——と思っている。
まずは、『Lilith』栞から。
佐藤弓生。
従来の短歌の読みすじで味わえる歌と、読者の身体感覚を撹乱するところがある…と、歌ごとの読みの変奏ぶりを教えてくれていて(教えるつもりで書いているのではないだろうが、僕は多くを教わる)そして納得が行く。
川野芽生スタイルはどのようにでもというところがあり、対象によって歌いやすいやり方をしているように見える。文体といったら良いのか、手法といったら良いのか分からないが、あらゆる技法を使いこなせる——川野芽生は、その文体の多様性が、負けず嫌いに起因している部分もあるのではと勝手に想像している。こんな風に読めますか?と挑戦されると、すらっとやって見せる。日常にのめる今どきの歌も、歌えば歌えるというようなところも歌集『Lilith』にはあるような気がする。(思い過ごし?)
それでも詠んでいるうちに、上昇してしまうというか、川野流に昇華結晶するというか、佐藤弓生の言葉で云えば、「やっぱりピアノ鍵盤の高音域、そしてその外へ指を馳せてしまう」指使いも見せる。『Lilith』には、そんな日々の変異も辿れて、瑞々しい。
any where out of the world(ボードレール『旅の憂鬱』の48章目のタイトル)を三つに割って、小タイトルに使った川野の歌の区分を、明解な言葉で看過していて小気味よい。
ここでない何処かという感覚は、ボードレール以前から綿々と伝わってきているが、でたい世界はどんな世界なのか、どのようにでるのか、何処でも良いといっていいながら、先はどんな処なのか…そのディテールは、作歌によって違うわけで、そこを語っている佐藤弓生は、秀逸な川野の読み手であり、同士である。

一方、どうなのかなと、思うのが
「制度を以て制度に抗う究極の孤絶」というタイルの 水原紫苑
  歌壇受賞作『Lilith』全体は現実の男性社会のみならず、大きくこの世界という制度そのものを告発しているが、それが洗練を極めた文語短歌の彫琢に拠っているのだ。P4
と、書き出して——男性社会のみならず、大きくこの世界という制度そのものを告発するとは、大仰で曖昧な——男性社会を、世界という制度を——それらを告発するとは!
川野芽生は、自ら宣言しているようにアセクシャルであって、それによってセクハラやパワハラを受け、怒っていたり、アゲンストしていたり——しているが、『Lilith』それ全部の歌がそのことを歌ってはいないし、ましてや告発などはしていない。
それは、一般論フェミニズムをやっているわけでもないし、その歌をうたっているわけでもない。水原紫苑は、告発といっているが、告発とは、ものの本によれば、「告訴権者(被害者及びその法定代理人、その他被害者と一定の身分関係にある者)及び犯人以外の第三者が、捜査機関に対して犯罪事実を申告し、犯人の処罰を求める意思表示をいいます。 」
川野芽生が仮にアゲンストしているとして、それは告発ではない。言葉に厳密であるべき歌人、しかも同じ女性が、川野芽生の歌を読めていない。何を歌っているか分からないのか、わざと褒め殺しているのか。告発という行為は機関に訴えることを云う。
 例えば、かつて寺山修司は、演劇で社会変革、意識変革が起せる、起したいと本気で考えていた。(側でそれを感じていた)その演劇行為を、社会告発とは言わないし、そういうふうに言われてはいない。
 僕の友人の森村泰昌は、大学に属していたときに、その大学がアートが世界平和に貢献するにはというアーティストの会議を開いて、そこに出席を要請されたとき、その会議自体にアンチを唱えた。アートが世界平和をもたらせる、そんな思い上がった考えをもっていなしし、今の現代美術に世界は変えられない。と、その大学を即刻退官した。
 森村泰昌は今の現代美術の体制の側に立つものではなく、アート世界に対して、アゲインストの姿勢をもっている。それは、横浜ビエンナーレのディレクションを見れば分かる。尼崎の人たちの活動をアートとして参加させている。その森村にしても制度を変えたり、アートのマイノリティを差別したりしないということがアート社会で簡単にできるとは思っていない。だから闘うのだ。その行為にしても[告発]とひう言葉は使わないし、使えない。
 水原紫苑は、歌が、制度を告発できたり、制度を変革できたり、ましてやいつまでたっても表向きの女性登用すらできない日本社会で、女性差別が根底的に続いている中で、能天気にそう思っているのか。
 たぶん川野芽生は、僕もこの歳ではじめて知った、アセクシャルということに対する、ハラスメントを解消して、あるいは身に降りかかってこないように、認知させて…ということですら精一杯だと思う。そしてこれほどまでに多様化した世界では、一つ一つのディーテールにそれぞれの事情があり、状況があり、それを具体に見て知ることが第一で、大きく括ること自体がハラスメントになるということに気がついていないのだ。自分と異なるものを認知する、そこから始めないと、変化/変革ははじまらない。
 そして歌集『Lilith』の栞なのだから、水原紫苑、歌についても、その秀逸性、これまでにない個性をもっていることについて、語る義務があるのではないか。しかも、社会全体の、制度への告発、川野芽生の歌は、そうじゃない。
 しつこく云うが、アセクシャルという属性をもっている作家が歌えば、その属性は歌についてくるが、それがいきなり社会制度を告発するものではない。川野芽生は変化を望んではいるだろうが、その変化を達成することは、非常に難しく厳しい社会に生きていて、それが故の痛みとか哀しみとか落胆とか開き直りとかそうしたものも歌われていないか。そこを見ることが歌人として必要なのではないだろうか。共闘しなくても良い。だけど読み落とすなと思う。
 単なるセクハラ、パワハラではなく、アセクシャルの人がハラスメントを受けたと強く感じることが立ち位置としてベースにあるのに…概論で、しかも間違った見方で語ることは、悪しきフェミニズムの闘争をしていると川野芽生の歌を云っているようなものだ。その結果になるということに、水原紫苑は気づいていないのか。
 もしかしたら意識して無視しているか、無頓着か…圧殺者なのか…いずれにしても、もう少し云いようがあるというものだ。
もう一つ気になるのは、水原紫苑は、川野が優れた歌を歌えるのは、作家(川野芽生)の比較文学研究者としての資質であろう。と云っている。凄いのは優れた学者の素養があるからって、失礼な。
自分歌の素人なので、細部語ることはできないが、素人目にも歌そのものの資質と、素性の良さ、詠んだり書いたりした言葉の量の多さ、そして書くことが好きという天性のもの…そうしたところがどう歌に反映されているかを語って、欲しいし、先達の女性歌人なら、それをすべきではないのか。
古典的な二項の対立、男か女か、白か黒かでしかものを捉えられないのは、ちょっと哀しい。そして最後にもう一つ文句。リルケの「薔薇 おお 純粋な矛盾」を反転すると、どうして
 幾重もの瞼を順にひらきゆき薔薇が一個の眼となることを
になるのか、具体的に書いて欲しい。
歌って大まかな表・裏とかの対立項を、制度の中でコピーされ尽くした言葉によって提示するものなのだろうか…。
川野芽生は、そうした擦りきれた日常語から離れて、文語とその文語制度のに入ることで、自由に豊かに言葉を使っていく/作っていく。文語は辞書を引かないと分からないものが多く(自分のこと…。高校生の古典はかなり成績悪かった。そして以来触れていないので…)しかもそこにないような意味を付加したり、そこから派生した造語を使ったりもしている。文語と文語の文法のフォーミュラを纏うことで、逸脱が可能になる。日常語からの逸脱はこと創造的ということでは難しいだろう。

『橄欖追放』/東郷雄二
http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran236.html
http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran290.html
垂直性のこと神のこと、云いたいこともあるが、それは評論の領域なので、少しも触らない。
川野作品の読みが難しいのは、川野が比較文学の研究者であり、その知識を駆使して作品を作っているからである。
読み解くには旧訳聖書の知識が要る。
と、滔々と川野芽生の歌の背景の文学や聖書、絵画などの知識を駆使しながら、それを以て解説していく。
そっか、知識がないと読めないのか。と、納得した。身体性を喪失させてとか、言葉がそれまでもっていた意味とか背景のような文脈を、するっと逸脱しながら、新しい感覚で言葉を使っているから、かと思ったけど、そうではないんだなと。知識がないからなんだ。ぼくが引いた歌とだいぶ構成が違うから、ぼくがもっと背景の旧約聖書なりの知識をもっていれば、もっと引用する歌が増えたということだ。
まぁ、知識と言葉で生きている人だから、世界の境界、つまり現実と現実外のラインをどこに引くかということは、(実はラインは引かずすっと境界を越えて読むものにさっとは気づかれないほうが良いし、そこに辻褄が合わなくても全然問題もないし…だって究極虚構だから…そのやりようが表現の威力ということなんだけど)だいぶんに価値観が違う。引用するが、ネットで全文を読んでもらえるのが一番良いかも。否定しているわけではなくて、ぼくは違っている感覚で生きていて、そういう人もいるんだよという話。

以下、引用。


藍いろの馬立ちつくす手袋のひだりは姉がはめてゐる午後
 は不思議な歌で、「藍いろの馬立ちつくす」が終止形で切れているのか、連体形で次に続くのかわからない。藍色の馬はこの世にいないので、連体形ならば馬の絵が描かれた手袋か~
「藍色の馬はこの世にいないので」



藍色の馬がいる/いないで現実か架空かの二分割を行なって分析をする行為自体に驚きを隠せない。しかも、藍色の馬がこの世にいないと断言してしまうことが言葉を扱う人とは思えない。馬の毛はいろいろな色に見えると知られている。光で藍色に見えるかもしれないし、作者がそう見えたら、それは現実であって、此処に感性はないのか!

しかも歌とか小説とか演劇とかの言葉が表現するものは、現実、幻想の境目無く現実として表現されるもので、仮に幻想と現実を分けて描く作家がいるとしても、それは全部がフィクションでかつ現実であるという認識から、言葉ははじまっていないか。
 川野芽生は、世界は言葉でできていて、自分はその中にいると思っているふしがあるから、その言葉の中が川野芽生の現実、世の中であると受け止めた方が、歌はすっと入ってくる。文法と知識によって歌を身体にいれる不幸よ。歌は歌であるべきなので、それを復活させている川野芽生を、地上という世界に引きずり落とすなと、私は云いたい。歌を成立させてきた〈私〉とか、〈恋愛〉とか〈日常〉とか〈写生〉とか、〈肉体〉とか様様な人間の感情、欲望、そのような要素なしで…では抒情はとか詩情はとか…読みながらいろいろに思う。要素をこれだけ引いても歌として正道として成立している。だって素人の人も、いいなあと思うからこんなに歌集が売れて、指示されるのでしょう? その成立させている何かを誰か見ぬいて言葉にしてもらえないだろうか。
贔屓の引き倒しになってしまうかもしれないが、男性社会を告発するとか、川野作品の読みが難しいのは、川野が比較文学の研究者であり、その知識を駆使して作品を作っているからであるとか、そこを強調しないで欲しい気がする。説明できないけれど、良い歌、惹かれる歌、新しい感覚に思い馳せたくなる歌であるのだから。
今は、評論家の意見、同業者の意見によって歌集販売のプロモーションがなされ、そのように歌は受け止められていく。そのことにぼくはぶすりと太い五寸釘を打ち込んでやりたいと思うのだ。


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