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感情の分け隔てを解いてゆく

誰かや物に不快を感じたり、怒りを感じたり、憎しみとか恨みを感じたり、
その感情自体を、またそう感じている時の自分自身を醜くて汚いものだと考えてきていた。そして、そう感じた対象である他人や他物を悪の存在だと決めつけることで
"醜い感情"を抱く自分という虚像を肯定しようとしてきた。これまでの長い年月、そうだった。


「どんな感情も、分け隔てる必要ないものである。どれも自分の感情としてそこにある、或いはあったことに違いはないのだから。」と、いう一文をあるアーティストのインタビュー記事を読んでいる中で私の心は無意識に拾い上げていて、読んだ後もその日は頻繁にその一文が不意に反芻されていた。

その後の今日、ある感情を醜くて、ある感情を美しいものだという分別を定めている自分に一歩踏み入って疑問を投げかけることになった。

何か一方が美しくて、その他方は醜いと捉えることがあったなら、美しさを本当の意味で理解していないのと同じこと。

一方を愛して他方を恨んだとき、それは本当には愛せていないのと同じこと。


この数ヶ月、心の中にあったある想いに何度となく向き合っていた。「父が死んだ時、そしたら初めて父を許せるのかもしれない」という、想いというか幻想的な希望のようなもの。でもほんとにそれで良いのか…と考えていた。

そして、今、本当に大切にしたいとおもえる場所と関係と仕事があって、心に抱いてるその存在を本当に大切にしてゆこうとするときに、それだけを特別に愛して他を否定したり排除しようとするのは、違うんだ と思えたとき、
当たり前のような解ったつもりでいたようなことにドカンと気付かされた。

昨日一日はしっかり塞ぎ込んで、今日はゆっくり立ち上がって、午後にはそんなことを考えていた。

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