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捨松・梅子と大の親友アリスが見た明治日本



アリス・ベーコンという女性は 山川捨松が明治時代 国費留学で米国にいた際にホームステイしていた家の娘でした。

捨松と思春期も仲良く暮らし 同じ学校に通い 夢を語り合った仲でした。いつか日本に来て 女子教育の応援をしてください、と 梅子や捨松から懇願され続けていました。今のように 遠い外国を行ったり来たりするのは簡単ではないから 一大決心が必要です。

アリスの来日がかなったのは 明治後半 彼女の人生も後半のころでした。
アリス自身が自分の学校を運営していたので それをまかせるようにすること、自分の旅費を確保すること、さらに来日して 活躍する場所を用意できるまでの梅子たちの尽力 などがそろうまで 長い年月を必要としました。

アリスは 一定期間日本に住み 学校教育の手伝いをしました。そのかんの暮らしや体験したこと いろいろについて正直な感想を本にまとめました。
そんなリアルな体験を描いた書物は 米国で売れるという思いがあったかは
わかりませんが 米国にも 未知の国 日本への関心をもった層は 面白く読めたのではないでしょうか。
この本を翻訳したのも 捨松のひ孫 久野氏です。

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米国人の女性から見た 明治の生活ぶりというのも 新しい視点です。彼女にとって印象的で書き記していた内容を いくつかご紹介いたします。日本人がどのように暮らしていたのかが 面白く 興味深いものです。

当時は 磐梯山の噴火が話題になっていた頃らしく 滞在中(明治22)
大きめの地震に数回遭遇したようです。彼女にとっては初体験。
部屋が 船の中にいるようだ、と書いています。
ちなみに 彼女は船で来日した際 愛犬も連れてきていて 一緒に住んでいました。犬を海外に連れて行く愛犬家 当時からそんなこともできたのですね。
アリスはを個人でもち 馬丁も雇っていました。馬というと今でいえば 自家用車になるのですね。また 通勤や外出に 自家用の人力車も購入し それをひく車夫も雇っていました。さらに 洋食を作るコックとその家族も同居しています。

クリスマスやサンクスギビングの行事を 自宅でやっていました。
同居するスタッフたちへのギフトを考えるのに苦労したと書いています。
相当大勢だから大変です。ツリーを準備して 靴下にギフトを入れたり 七面鳥を焼いたり とクリスマスなどの行事は 手を抜かないのですねえ。

日本で使用人たちの立場は 米国より上 だと彼女は見ていました。
米国だと 使用人と 家長や家族とは 上下関係がきっちりしていたのです。
でも日本は 使用人は仕事への責任感が強く 雇い主にも意見を主張すると
書いています。何か料理か馬や人力車などの事で 自分たちにまかせてほしいと 彼らが自説を主張でもして アリスの言うことを聞かなかったのかもしれません。当時の日本人って 自分の持ち場に関しては 自信もって主張するし 雇い主にもそこは譲らなかったのでしょうか。
また 自分の仕事以外には 首をつっこまず 堂々と自分の生活をしていると見ていたらしいです。
料理スタッフは 馬や人力車のスタッフたちとは さほど交流もしないということでしょうか。お屋敷での裏方さんたちの様子は 想像するしかないです。

水戸屋敷のあと地(今の後楽園のあたり)に お庭へピクニックに行ったり
富士山がとてもきれいに見えたり 芝のあたりにある 勧工場という
ショッピングセンターみたいな所でお買い物すれば なんでも揃ったり
夏祭りや夜祭りの出店 屋台などを楽しんだり。
こういう描写から 東京って 当時庶民のくらしは活気あったのだなあ。
地域の祭りの景色というのは 日本の変わらぬ姿 伝統だったのだなと思います。

赤ちゃんの産着はとても機能的だと感心していました。着物ふうだから 脱ぎ着させやすいのだと。長い袖は 顔をひっかかなくて 役に立つと。
アメリカの赤ちゃんは 泣き叫びながら洋服型の袖やボタンを苦労して着替えさせていたらしいです。服装文化のちがいには きっと驚いたことだろうと思います。

また 葬儀の風習にも驚いていました。葬儀が 行事とお供えに遺族が翻弄されすぎだと批判的に見ています。お金がかなりかかり 遺族当事者は 悲しむ余裕すら与えられないのは いいようだけれど みんな そういう風習に不満をこぼしているから やめればいいのに やめることができない。と見ています。
これは いまの世ですら 同じことが 続いています。日本は長いこと不満のまま 何でも我慢しながら続けている国なのかもしれません。


アリスは日本語を学んでいました。しかし 文法らしいきまりがないから 覚えづらいとこぼしています。
これは梅子もそう言っていたことでした。日本語は 「名詞と動詞と形容詞しかない」と。
しかも それぞれが別の品詞としても使われるから わけがわからん と。
カタカナだけはしっかり覚えられたようです。でも ひらがなは くにゃくにゃで 無理だ、と。そりゃあそうでしょうね。
 
しかし 文法 品詞の活用というのは 日本語にも ありませんかね?
ただ 彼女たちがいた時点では 日本語学者が文法として体系化するまでに至っていなかったのかもしれません。
いっぽうその当時から すでに英語は きまりとして体系化されており 外国人が習得する際にも 文法として系統的に学ぶことができていたということなのでしょうか。 だから 幼い日本の少女たちも短期間で英語を習得して 高等レベルの教育まで受けることになれたのでしょうか。

アリスの職場の華族の女子学校というのは 子供たちは 学校へ行くのも 遊びに行くのも人力車でした。
女子は特に自由がないのです。また生徒たちは忍耐強くて 式などが無駄に長くても礼儀正しく きちんとしている、アメリカなら 騒ぎ出す、と驚いていました。
それは意外です。米国で良家の子たちが来ていた学校でも 現代のアメリカ映画を思い浮かべるような学校の現状が昔から あったのでしょうか。
 
華族の女学校の生徒たちの洋服は あまり似合っていない子もいると書いていました。
親が洋服の構造もよく知らずに 調達(縫製?)したからか 作りがおかしいらしいのです。

また アリスの時代のほんの少し前にすぎない有名人だったペリー提督の記録書類を読むということがあったらしいです。そこには 自分の教え子たちの祖父や親の名前が一杯出てくると 驚いていました。教え子たちは 江戸の重鎮や維新の人物たちの子孫ということです。そんな相手たちを対象としていたわけですが 女子生徒たちが 一様に家でおさえつけられていて 才能や力を発揮できそうな状況ではなかったのです。

教育体制や政策は 民主主義がなっていない なんでもスピ―ドが遅い
アリスは見ていました。民主主義じたい 多くの日本人は どういうものなのかわかっていたはずがありません。なんなら いまだに わかっているとは言えないかもです。
これらのことは 帰国後 梅子や捨松も 何度もぶちあたって嘆いていたことでした。
米国人のアリスにしたら さらに啞然とさせられていたのでしょう。
アリスは 梅子と 日本の現状について 何度も語り合っていたので
梅子の体験も見聞きして より痛感していたのかもしれません。

梅子も捨松も 日本が行政や施策や 改善 実行すべき課題などに
非常にのろい対応している
、という批判をしていました。
訴えても理解してもらえない 理解してもらえたとしても 改善する一歩すら見えない。変わる事をよしとしないのか 慎重なのか いい加減なのか、と。この姿勢は 明治の頃も 現在も まったく変わっていないと 痛感しますね。

アリスは行動的で 馬で単独外出することもあるし 帰国まぎわは 京都まで船で旅をして 帰りの東京までは 人力車で帰ろうともしました。
帰る途中 台風に遭遇して 静岡県で人力車を断念。
強靭な人力車のひき手を頼んだのに みんな弱気で 体力も弱かった と
不満だったようです。しかし 現実 東海道を人を乗せた車をひいて移動なんて ありえません。
大国アメリカでは 日本の都市間の距離なんて 屁でもないのでしょうか。 
アリスは ある時 道で自分の車夫と 誰かの車夫がトラブルになり 口論から殴り合いに発展していくの ずっと観察していて 笑えてしまったと書いています。喧嘩の言葉がわからないので 様子を第三者的に見ているしかないのでしょう。

アリスは 日本文化 特に生活用品をほめていました。火鉢や 家にある物がとてもきれいと感心しています。てぬぐいなどの安い物ですら それを作る職人たちの美意識がすばらしい、と。
道具や家具 陶器などにも デザイン 色 形 装飾など かなり ほれぼれしていました。
彼女が帰国の時 持ち帰り それらが美術館に保管されてあるのです。
また 京都への旅のあいだ 地方の旅館に泊まっても 食事などに感心したようです。
靴を脱ぐから家の中が綺麗である習慣をほめ 家具を置かないスッキリした部屋も感心していました。

帝国憲法発布の年は 東京じゅう お祭り騒ぎが数晩続いたと書いています。
同時に 教育関連の重鎮 森有礼の暗殺があった時でもあります。その事情を事細かに探って 報告しています。民主主義に慣れた彼女には そういうテロがあることにショックだったのでしょうか。でも 日本はそのちょっと前まで 幕末混乱期 そういうテロと弱肉強食の世の中だったわけですよね。

女学校の参観があり 皇后から絹織物のおみやげをもらったということがありました。
皇后の訪問前には うやうやしくお辞儀する方法を聞いておかなかったので 不安だったがなんとかやりすごせた、と 書いています。
彼女はこの織物でドレスを作り 前述の博物館には それも残してあるとか。

天皇が馬に乗って 閲兵行事に出ているのを見に行ったけれど 馬の乗り方があまりよい姿勢には見えず 威厳が少しない印象だと。
また天皇の子供がまだ幼児なのに まわりが最敬礼のお辞儀をするのが抵抗あったけれど
(大統領制の民主主義国から来た彼女だから当然) 従ってみたと。
その後 戦争などがあり 国の雰囲気が変わっていき 学校行事で 写真に向かってお辞儀するようになってきたのは おかしいと思ったとも書いています。帝国憲法発布のあと 天皇の神格化へ向かっていったことを肌で変化を感じたのかもしれません。

中国人は公の行事の場で ふんぞりかえってテントの中で座っていた。これが国際社会で嫌われている理由だ と書いてあります。たぶん東アジアへの色々な差別感や偏見などもある微妙な世界情勢の当時だったようです。

当時 欧米各地からアジア諸国をじっくり訪れた旅行家たちの詳しい記述は 相手国を知り 国同士の関係を保つ際のよい資料になっていたのかもしれません。しかも米国では 女性が執筆して出版されるという文化も当たり前のようにあったのですね。アリスは学校経営もしていたほどのキャリア女性だったし 滞在先の文化や制度を冷静にみすえ 良い点と悪い点をじっくりと観察してメモしていったのですね。

彼女は梅子の親族を連れて米国留学の世話を続け さらに 一柳満喜子の留学にも協力していました。理想を述べるだけではなく 実践して 女子教育を日米で努力した人生を送りました。

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