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とんちの日

語呂合わせで、一休禅師にまつわる日なのだろう。
アニメにもなっているのだが、この禅師の実態や史実は実にアクが強いというか、少なくともとても少年少女向けではない。アニメのモチーフはほとんどが江戸時代にとってつけられた虚構である。

例によって日本語のwikiだと煩雑なので、フランス語のWikipediaでも眺めて整理してみよう。

一休が生まれたのは室町時代である。後小松天皇のご落胤ともいわれているが専門家は賛成していない。安国寺に入山したのが6歳のころ、この頃は千菊丸と名で漢詩を読み才覚を表している。

Ikkyū naît en 1394 pendant la période Muromachi sous le nom de Sengikumaru ; il serait le fils de l'empereur Go-Komatsu. Les spécialistes ne s'accordent pas sur ce point. Il entre au monastère Ankoku-ji à six ans et se montre très doué pour la poésie.

17歳にて西金寺の謙翁宗為のもと、禅の修行に入り宗純の名になる。この頃の禅は、夢窓疎石の五山系と、宗峰妙超の大徳寺系があった。謙翁宗為は大徳寺系の高僧である。21歳のとき、師匠の謙翁がなくなり意気消沈して、琵琶湖のほとりの石山寺にいく、思い余って琵琶湖に身を投げようとするのを、母の使いに止められる。一休の母は、「普通の禅僧になるな」と常々教えていた型破りで、ひそかに密使をつけていたと思われる。さて、死を止められた一休は、”大死一番”のごとく謙翁以上の師を探すことになる。そこで、華叟宗曇の噂をきく、大徳寺系にもどこにも属さず、琵琶湖のほとりにある堅田で侘び住まいをしていたのである。そして、やっとのことで弟子入りが許される(このときに名前が一休となる)。

À 17 ans il choisit de suivre le moine Ken'ō Sōi au temple Saikon-ji, qui lui donne le nom de Sōjun. À la mort de ce dernier, Ikkyū qui a 21 ans décide de suivre l'enseignement de la branche du Daitoku-ji, le temple principal de l'école Rinzai[réf. souhaitée], en entrant sous la direction de Kasō Sōdon (華叟宗曇?) au temple Shōzui-an. Kasō le nomme alors Ikkyū.

あまりの修行にトランス状態に入った一休はカラスが鳴いた時に悟りを開く。悟りを開いた一休は、師匠の跡継ぎをなんと断ってしまう。それまでの系統の禅をすべて否定に入るのである。無門関に「仏に会ったら仏を殺せ」という、イデオロギーをすべて壊す気概の激しい禅の精神である。放浪に彷徨い歩き、母にも会うことになる。

Alors qu'il médite sur une barque sur le lac Biwa, Ikkyū entend le cri d'une corneille ou d'un corbeau et atteint le satori (l’éveil), il en parle à son maître Kasō qui décide d'en faire son successeur1 mais Ikkyū refuse. Il quitte alors le monastère pour vagabonder et retrouver sa mère, qui décédera peu après.

”鬼窟黒山何称尊”、自分のいた大燈寺の修行を貶し、あんな鬼が出そうな山に籠もって修行して何になるというのだ、みたいなことを言い出す。
応仁の乱のあと、一休の名は天下に届き、大徳寺の管長になる。このときも、一休は入山届けと退山届けを同時に書いた。こうして名誉を亡きものにしておいて、一方では堺の豪商と手を結び再建のための資金を調達ということを成し遂げる。こうしたことを松岡正剛は、格式から破格への変化だという。

À l'âge de 47 ans, il est nommé supérieur du Nyoi-an (如意庵?) dans l'enceinte du Daitoku-ji. Il quitte très vite ses fonctions car il ne trouve aucun intérêt au travail figé des moines de haut rang. Lorsque le temple est incendié durant la guerre d'Ōnin (1467-1477), il soutient les efforts de reconstruction, avec l'aide de nombreux marchands de Sakai.

 一休は77歳にて盲目の女性”森女”と深い情愛を交歓する仲になる。しかも一休はバイセクシュアルを公言してはばからなかった。これは純粋なものを求めるために仏を殺すベクトルとは違った方向の傾きである。晩年にエロスというのは、良寛という禅僧も同じであるが、なにかを目指すというよりも、自分の感情に素直に生きたということであろう。

Habituellement, il est considéré comme l'une des principales influences sur la secte Fuke de Rinzai zen, car il est l'un des mendiants les plus célèbres de la flûte traversière de l'époque médiévale du Japon. La pièce "Murasaki Reibo" lui est attribuée. Il est reconnu comme l'une des grandes influences de la cérémonie du thé japonaise et est reconnu comme l'un des plus grands calligraphes et artistes sumi-e du Japon médiéval . Ikkyū a écrit en chinois classique de style Kanbun , utilisé par de nombreux auteurs japonais contemporains. Par exemple, le poème "Calling My Hand Mori's Hand".
我 手 何 似 森 手 自信 公 風流 主 發病 治 玉茎 萌 且喜 我 会 裏 衆
Ma main, comment elle ressemble à la main de Mori. Je crois que la dame est la maîtresse du jeu d'amour; Si je tombe malade, elle peut guérir la tige ornée de bijoux. Et puis ils se réjouissent, les moines de ma réunion. 


そもそも臨済宗のいう悟りとは、「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ものである。性欲を排除し、戒律を守り、世事を離れて自然と交わり、歌や書や曲にのせる侘び住まいもある。また、無頼の旅に出るというのもある。片雲の風に誘われて漂白の思ひやまずという芭蕉のやった方法である。こういうのを風流というが、過激に風狂という方法もあったのである。過分なものをわざと表に表すという方法である。そういった異風異体のやりすぎとか過剰の中に世の中の本質みたいなこともまた含まれているのである。
 一休は偽善というものを徹底的に排除したのだ。偽善は人間社会を円滑にするために必要なものだと思う。すべて心を欲望のままさらけ出してしまうと、ギクシャクするのである。そのため偽善を纏ってうまいことやるのである。それはあくまで便法なのであるし、社会は真理なんて無しでも存在しえる。一方心は偽善では絶対に救われないのである。求道者としては、偽善など徹底的に焼き尽くすべきものであろう。
 社会と悟りは別のレイヤーの領域で生きるものであるが、そこのクロスオーバーが必要なときもある。そういうときに偽善で飾るでもなく風流に閉じこもるのでもなく風狂に荒れ狂って街を練り歩くのも必要なのであろう。

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<来年の宿題>
・臨済宗と禅
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頓智と反骨のジャーナリスト、宮武外骨のイラスト


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