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水の日

 8月が年間を通じて水の使用量が増えるという。それで政府が水の週間とともに8月1日を水の日と定めた。

 万物の根源は水であるといったのはタレスである。
この万物の根源という問いの立て方自体を指して、哲学の創始者といわれる。タレス自体はなんの著作も残していない。アナクシマンドロスによって今に伝わる。
 私は、哲学は立ち止まって考える行為を指すと思っていた。

あるエコロジストの水に関する言及を引用する。

« Il faut longtemps rêver pour comprendre une eau tranquille » : c’est à la source de Gaston Bachelard que s’abreuve cet essai fluide. Penseur d’une éthique écologique, Jean-Philippe Pierron revendique la nécessité de re-poétiser la planète bleue pour mieux en prendre soin, ce que Günther Anders appelait « éduquer l’imagination morale ». Il s’agit de faire à l’envers le trajet qui mena de la cosmogonie originelle du « Tout est eau » de Thalès (VII-VIe siècle av. J.-C.) au matérialisme physico-chimique du H2O de Lavoisier et donc – généalogie un peu rapide – aux logiques instrumentales qui président aujourd’hui à l’exploitation de l’eau, à son gaspillage, à son épuisement. Au milieu du gué se trouvent l’expérience sensible et les meilleures pages du livre sur la phénoménologie de la soif : boire un verre d’eau quand on meurt de soif. De l’eau, Jean-Philippe Pierron fait essentiellement l’élément de la relation : celle des « créatures de la soif » que nous sommes, avec la vitalité du monde.

 ガストン・バシュラールは流体に興味があったらしく、”流れるもの”を哲学した。循環フェチである。私ごとで恐縮だが、講義のレポートに、ゾラの「居酒屋」をとりあげ、この小説に出てくる川の描写について、洗濯やのジェルベーズが酒を飲んだ途端に「黒く濁ってしまう」と変化するところに目をつけた。ナナは白い服を食事の際に汚す。
 バシュラールがこの小説の中で、循環について記述した文章を書いていて(出典は忘れました)自分の説の強化のため引用したのを覚えている。
 ガストン・バシュラールは「水の夢」というエセーを書いた。まずは来年への宿題として挙げよう。引用文に出てくるJean-Philippe Pierronはエコロジーの哲学者で、エコロジーの正当性とまた不当性を説いた書物「Etude」を2016年に書いた。多角的な視点をすぐれた文節でとらえたPierronは我々のことを「渇いた生き物」であるとし、世界の活力を渇きを癒すという視点で捉えている。

un ouvrage paru en 2016 permet de compléter les analyses plurielles autour de la justice environnementale et des injustices environnementales, sous l'angle du droit (droit public, droit international, droit de l'environnement), de l'éthique et de la philosophie (théories de la justice sociale et de la justice écologique), de la géographie (justice spatiale) et des sciences politiques (démocratie écologique).

 こういった捉え直しこそがまさに哲学者の役目なんだろうとも思うのである。そして、私はこうした言説を考えるには、「立ち止まる」ことが必要なのだと思ったのである。
 8月1日は大森荘蔵の誕生日であるのだが、彼の著作の中で彼はこう記している。

科学的描写される物と日常的に描写される風景とは、
原因と結果といったよそよそしい関係にあるのではない。
それらはまさに一心同体の「同じもの」の「重ね描き」なのであり、
したがって「すなわち」という最高に緊密な関係にあるのである・・・
                      「知の構築とその呪縛」

 まじか!・・・水はラヴォアジエのいうH2Oであるみたいなことを、雨や洪水をみてそんなこと思うのだろうか。。。
なんか哲学者ってかなり無理をしてるんではないだろうか。と思ってしまう。大森荘蔵の有名な哲学的断章「流れとよどみ」は、「目指したのは、世界と意識、世界と私という基本的構図を取り壊す」という試みである。
なるほどコレが本当にできるのであれば ”よどみ”は消えて流れの中で物事を立ち止まらず哲学的に考える?ことができるのであろうが、そんなことができたとして、なにがうれしいのか。

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 モットーみたいに(人生)哲学を一旦かんがえてみる。たとえば「人を大事にするっていうのが私の人生哲学でして・・・」という言説のことである。どんな儲け話があっても人を大事にしないのであれば、手を出さないということである。なるほど、このようにモットーの下では、どんな偶然や出来事や蓋然性と出会っても変わらないもの、”よどまない”ものである。
 哲学とは「どこからやってきて、これからどこへむかっていくのか」を問う。たとえばニーチェは超人になることを”どこへむかっていくのか”の解とした。ところが、なかなか人間は超人にはなれない。
 天災やウイルスの流行があったり、突然有名人が自殺したり、そういった蓋然性と向き合ったときにモットーが晒される。いみじくもジンメルは偶然を必然と置き換えた”外の世界”を考えたときに、悲劇性が生まれるといった。
 ハイデガーの考えた問題だって実はそうで、世界内存在に企投されている現存在について、いかに自身を取り戻すのか(=”どこへむかっていくのか”)という問題を考えた。
 大森荘蔵の場合には、世界内存在の中で自分というのをどのようにとらえていくのか、自分を世界の流れの中に解放したかったかのように思える。
 それは少しベルグソンと似ていると思う。ベルグソンは人間の流れの意識を考えて、それが生命の進化とアナロジーの関係にあるのではないかという仮説を建てた。あっちゃこっちゃに目移りする意識。今このことを考えたかと思うと、ふと、近くの花に目を奪われたりする。こういういわば自然の流れの中で思考した。徹頭徹尾とかフレームワークのように合理的枠組みのようには意識は働かない。
 もう一つ似ているところがある。ベルグソンの”直観”である。意識に直接あたえられるものについてのことだ。”科学と形而上学は直観の内に合流する”とした。大森荘蔵の重ね塗りと似ている。ベルグソンは、次のようにいう。

それもその物質性については、哲学者はそれを科学の仕事とみなし、哲学の仕事ではないと考える。しかし、ここで主張されている分業が、すべてをかき乱し、混同することになるのがどうして分からないのか。

これは大森荘蔵のいうところの、「科学的描写と日常の描写の緊張関係」にほかならない。
 が、しかし、ベルグソン本人も指摘するように、この直観の努力は、神秘家の証言の中でしか続かないとしている。体系化するときに捨て去られてしまうのである。そして、このような直観の努力とともに、変化に対応したエラン・ビタルも必要だとする。

存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造する 
                     A・ベルグソン「創造的進化」

 無際限に自分を創造するという中で、実は、大森荘蔵のいう”基本的構図を取り壊す”作業もここに含まれているのではないだろうか・・・

 ともかくも、こうして哲学は単なる”知の遊び”でなく、生きていくためのエンジンになるのである。そのエンジンは人それぞれで、超人を目指したり、ジンメルのように貨幣を武器にしたり、ハイデガーのように自己をメメント・モリからの逆算により屹立させたりする。
 屹立させたり戦わないで、”流れ”の中に自らを解き放つエンジンもある。
それが、ベルグソンだったり大森荘蔵だったりするのではないか。
(この問題もまた別に書く)

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 流れるものの根源は液体であり、その代表が水である。タレスの言は、問いの立て方ばかりに注目されているが、案外的を得ているのではないだろうか。。。ヘラクレイトス(万物は流転する)と同じことが言いたかったのではないだろうか・・・
 仏教では、仏様に水を供える。亡者は地獄では”渇く者”なのかもしれない。風水では水を運気の貯蔵庫と考える。だから庭に溜池をつくり運気を貯蔵する。世界は生き物であり、脈(心臓の鼓動)を整え血がスムースに流れるというメタファーである。そのような”生態系の物理学”があるからである。
 たしかに宗教じみている。神秘主義的である。しかしそれを否定する科学的真理など、所詮はスルリと身を交わす者である。
 知覚とそれを整理するエンジンを常にバージョンアップさせていくことこそ、水脈に沿って流れていくことだと考えている。
 そのために、私はこのnoteを書いているといってもいいくらいなのだ。
このnoteはひとつひとつが、知脈が流れるためにバージョンアップを行った軌跡である。

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<来年の宿題>
・ガストン・バシュラール「水と夢」
・ガストン・バシュラール「空間の詩学」
 を「風水」との比較文化論で論じる。(☆)

 ☆・・・再来年かも(笑)
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●見出しの画像
水の都ヴェネツィアの画像
(画像はお借りしました)
途中挿入の画像は同じく水の都と云われている、
オランダのアムステルダムの画像
(画像はお借りしました)
先日のnoteでもチューリッヒについて書いたが
チューリッヒもやはり、水の都である。そして江戸も。
都市はいずれも水をよく街の景観とともに生かしている。

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