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パラシュートの日

まえがき

パラシュートの日ということで

ガルヌランについて記述している。18世紀末、抑圧からの解放が空を飛翔する力になっているのか、1797年の今日には、ガルヌランは気球からパラシュートで舞い降りた。19世紀末の1870年10月7日にガンベッタは気球でパリを脱出する。今日は、ガルヌランの方でなく、ガンベッタの方について付け足ししてみよう

ガンベッタ

エムス電報事件

共通の敵や目標があると一致団結する傾向が人類にあるのは、
かつてのドイツ国民も同じ、ドイツ統一を目論むビスマルクはそのターゲットとしてフランスを選んだ。
エムス電報事件というものがある。

フランス語で、その電報の原文を載せると

« Sa Majesté m’écrit : « Le comte Benedetti m’a arrêté au passage à la promenade pour me demander finalement, d’une manière très indiscrète, de l’autoriser à télégraphier aussitôt à l’empereur que je m’engageais pour l’avenir à ne jamais plus donner mon consentement, si les Hohenzollern revenaient sur leur candidature. Je finis par refuser assez sévèrement, attendu qu’on ne devait ni ne pouvait prendre de pareils engagements à tout jamais. Je lui dis naturellement que je n’avais encore rien reçu et puisqu’il était, par la voie de Paris et de Madrid, informé plus tôt que moi, il voyait bien que mon gouvernement était de nouveau hors de cause. » Sa Majesté a depuis reçu une lettre du prince. Comme Sa Majesté avait dit au comte Benedetti qu’elle attendait des nouvelles du prince, elle a résolu, sur la proposition du comte Eulenbourg et la mienne, de ne plus recevoir le comte Benedetti, à cause de sa prétention, et de lui faire dire simplement par un aide de camp que Sa Majesté avait reçu du prince confirmation de la nouvelle que Benedetti avait déjà eue de Paris, et qu’elle n’avait plus rien à dire à l’ambassadeur. Sa Majesté laisse à Votre Excellence le soin de décider si la nouvelle exigence de Benedetti et le refus qui lui a été opposé ne doivent pas être aussitôt communiqués tant à nos ambassades qu’aux journaux. »

「陛下から私への手紙には次のように書かれています:『ベネデッティ伯が散歩中に私を呼び止め、最終的には非常に押し付けがましい方法で、もしホーエンツォレルン家が再び候補に名乗りを上げた場合、私が将来にわたって再び同意しないことを皇帝に電報で伝える許可を求めてきました。私は最終的にかなり厳しく拒否しました。というのも、そのような約束は永遠にはできないし、すべきでもないからです。当然のことながら、私はまだ何も受け取っておらず、彼がパリとマドリード経由で私より早く情報を得ていたので、私の政府が再び関与していないことが明らかであると彼に言いました。』 その後、陛下は皇太子から手紙を受け取りました。陛下がベネデッティ伯に皇太子からの情報を待っていると言ったので、エーレンブルク伯と私の提案により、陛下は彼の要求を理由にベネデッティ伯をこれ以上迎え入れず、単に副官を通じて、陛下が皇太子から既にパリからベネデッティが知っていた情報の確認を受け取ったこと、そして大使にこれ以上何も言うことがないと伝えさせることを決めました。陛下は貴殿に、ベネデッティの新たな要求とそれに対する拒否がすぐに我々の大使館や新聞に伝えられるべきかどうかを決定するよう委ねています。」

元の電報

これに対し、ビスマルクはこれを改竄して送付した

« La nouvelle du renoncement du prince héritier de Hohenzollern a été officiellement communiquée au gouvernement impérial français par le gouvernement royal espagnol. Depuis, l’ambassadeur français a encore adressé à Ems, à Sa Majesté le Roi, la demande de l’autoriser à télégraphier à Paris, que Sa Majesté le Roi, à tout jamais, s’engageait à ne plus donner son consentement si les Hohenzollern devaient revenir sur leur candidature. Sa Majesté le Roi là-dessus a refusé de recevoir encore l’ambassadeur français et lui a fait dire par l’aide de camp de service que Sa Majesté n’avait plus rien à communiquer à l’ambassadeur. »

ホーエンツォレルン家の皇太子の退位のニュースは、スペイン王国政府からフランス帝国政府に正式に通知されました。それ以来、フランスの大使はエムスにいる陛下に対し、もしホーエンツォレルン家が再び候補者として名乗りを上げる場合、陛下が永遠に同意を与えないとする約束をパリに電報で伝える許可を求めてきました。これに対して、陛下はフランスの大使をこれ以上受け入れることを拒否し、当直の副官を通じて、陛下は大使にこれ以上何も伝えることがないと伝えさせました。

ビスマルクが改竄した電報

まぁ、フランス大使の態度はちょっと強圧的になっていて、
プロイセン王の対応が冷淡で断固としたものになっている。交渉の余地がない内容になっている、、、とのことなのだが、私にはただ簡潔になっているだけのように思われる。ここにも時代やレイヤーのプロトコルの相違が見られるのかもしれない。たしかにぶっきらぼうにはなっているが内容はさほど変わっていない
とにかくビスマルクはこの改竄により、民意を得て、フランスを焚きつけることに成功し、戦争に導くのである。

フランスの状況

パリの空は鉛色に沈み、街路には不安と期待が入り混じる空気が漂っていた。1870年7月、エムス電報事件が勃発した。ビスマルクの巧妙な策略により、フランスとプロイセンの緊張は一気に高まった。ナポレオン3世は、かつての栄光を取り戻そうと必死だった。彼の治世は、パリの大改造や産業の発展など、フランスに近代化をもたらした。しかし、メキシコへの軍事介入の失敗や、国内の自由主義勢力の台頭により、その権威は揺らいでいた。「我々は戦わねばならない」ナポレオン3世の決断は、フランスを奈落の底へと突き落とすことになる。普仏戦争の敗北により、第二帝政は崩壊した。しかし、革命後のフランスは混乱の渦中にあった。臨時政府は、プロイセンとの和平を模索する一方で、国内の不満を抑えきれずにいた。その中で一筋の光明となったのが、レオン・ガンベッタだった。「フランスは決して屈しない!」気球でパリを脱出し、地方で抵抗運動を組織したガンベッタの勇気は、多くのフランス人の心に火を灯した。しかし、閣僚たちの多くは、パリに留まることを選んだ。彼らは新たな革命の勃発を恐れ、同時に自らの地位を守ることに汲々としていた。その怠慢と優柔不断さが、後のパリ・コミューンの素地を作ることとなる。

ということなのである、つまり、パリ・コミューンはガンベッタが登場しないのである。怠慢と優柔不断さはガンベッタにはなかったといってよい。
(ここで課題を訂正する、大佛次郎の『パリ燃ゆ』にはガンベッタの登場はない)

ガンベッタの勇気

ガンベッタの視線だと、プロイセンに包囲されたパリと、パリ政府は機能不全に陥っていた。他の閣僚たちも動こうとしない。ここでナダールのことをきいた。写真家で気球研究家のナダールが偵察用の気球部隊を組織していた。これしかない、、、ナダールの心境の詳細はわからないが、とにかく説得に応じないと歴史は動かない。アルマン=バルベス号は飛び立ったのである。モンマルトルの丘に集まった人々はその気球をみて歓声をあげた、しかし、プロイセンは気球を銃撃する。このとき風向きが変わり、気球は北へ流されエピヌーズに着陸した、このあとのガンベッタはトゥールに向かい、新たな軍隊を組織して、プロイセン軍への抵抗を見せた。
しかし、この抵抗も虚しく、結局フランスは敗北を喫することになる。
戦争終了後、ガンベッタは第三共和政の樹立に尽力し、今度は穏健派となって活躍、1879年には下院議長、1881年には首相に上り詰めた。

ガンベッタの生涯

1838年にレオン・ガンベッタはフランス南部のカオールに生まれる。
幼少期には片目を失うという不運に見舞われる。この不運にめげず、彼は法律を学び、弁護士になる。1868年に第二帝政を激しく糾弾し、一躍有名になり1869年には議員に当選して、急進共和派の若きリーダーとして、頭角を表す。1870年、気球の年である、ガンベッタは国防政府の内務大臣に就任した。プロイセン軍がパリを包囲したときについてはすでに記述したとおりである。首相に上り詰めた翌年の1881年、セーヴルの自宅でリボルバーの暴発により死亡した。一説には情人との諍いが原因という人もいるが詳細は不明である、わずか2ヶ月の首相在任期間となってしまった。

あとがき

ガンベッタは頑張った・・・親父ギャグも虚しくなるほどに、実に人間らしい一面を持っている魅力多い人間に映る。カリスマだったといえるだろう、このあと政治的な不安定な状態にフランスは陥り、彼の死後、1899年まで20以上の内閣が交代する。共和制の定着はだんだんとなされていき、植民地拡大の政策に移っていく・・・

次回は、パラシュートの話に戻そうと思う。


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