見出し画像

漢字の日

語呂合わせにちなんで、日本漢字能力検定協会が12月12日に記念日を制定。

漢字自体のもつ魅力というのは、どのようなものであろうか。。。
1文字が物語を持つ。私は、中学生の時、漢文の響きに憧れた。漢文調の格調という形式に美を感じたのである。酒と孤独と対する雄大な自然とを物語る人生の機微を短くまとめる術にも憧れたのである。
しかし、同時にアンチテーゼも読んだ。中島敦の「文字禍」である。引用しよう。

獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶が悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

文字が霊性を持つ。文字のもたらす禍(わざわい)いにおいて、こうした発想を続けていくと、ボルヘスのバベルの図書館などを、文学に敏い人は示唆するであろう。
 一方で、漢字といえば白川静を想起する人もいるだろう。文字に込めた魔術に取り憑かれた一人である。

白川静从宗教、巫术角度出发研究古文字,认为每个汉字背后都有相关的巫术背景。其最具代表性的学说是“才”学。白川静认为“口”的原意不是嘴巴,而是表示祭器的一部分,所以不应读成kǒu,而应该读成“cái”。这种以巫入字的研究角度后来由平势隆郎继承。

文字をポケモンのキャラクター(ここは文字どおりだ)のように蒐集する姿に狂気すら感じる。そう、白川にとって漢字は宗教で、その熱狂的な信者なのである。
 この中国が生み出した古代文字が、ヒエログリフ起源だと譲らなかった大学者がいる。そう、アタナシウス・キルヒャーである。この好奇心を人間の保守的な脳から引き釣り出す漢字の魅力に迫る日だとしよう。

Ce type d’interprétation connut son apogée avec les travaux du père jésuite Athanasius Kircher (1602-1680), qui consacra des volumes entiers à l’interprétation des hiéroglyphes, principalement aux inscriptions qui se trouvaient sur les obélisques romains. Kircher y voyait avant tout des manifestations de la théologie chrétienne, dont les prêtres égyptiens auraient recueilli des morceaux et qu’ils auraient cachés aux profanes.
●apogée ... 頂点
●profane ... 非宗教→ 俗人の

 
 そんな漢字の日が生誕日の作家がいる。フローベールだ。サルトルの書いた「家のバカ息子」などを思い出すのだが、もはや記憶のかなたになってしまっている。蒐集家の喜ぶような夥しい知識を文体の裏に隠しながら、物語を紡ぐこの作家。いつしか、この作家について、このNoteでも書いてみよう。
 フローベールの処女作は「聖アントワーヌの誘惑」である。彼は、さまざま文献を歩哨して執筆にあたる。古代教会史、考古学、神話学、オリエント史、中世の空想旅行記、博物誌、ゾロアスター教、グノーシス派、仏教ならびに宗教概説書などなど、ボルヘスのバベルの図書館よろしく、サルトルの”嘔吐”やバタイユ、、ミッシェル・フーコーが「幻想の図書館」において「図書館の現象」と名付けたものである。それらが表象に出(いで)るときには、バフチンよろしくポリフォニーで脳に刺さってくる。ゲーテの「ファウスト」のように、さまざまな誘惑が語りかけてくる。シバの女王が主人公アントワーヌの顎髭をつかみ、肉の誘惑を語り、イラリオンが禁欲の無意味を説き、魔性のものどもが蠱惑的な言葉を囁く。エフェソスのアルテミスからエジプトのイシスまで、さまざまな異教の女神が到来し、瀆神の説を披瀝し誘う。それでもアントワーヌは断固として神への忠臣を誓い拒否し続けるのである。やがてさまざまな怪物が躍り出る。半身が鹿、半身が牛のトラゲラフスやら、前が獅子で後ろが蟻、性器が逆さに付着しるミルメコレオ、巨大な蛇のアクサール、3つの頭をもつ熊のセナッド、角の生えた兎のミラグ、乳房から青い乳を撒き散らす犬のケプス、、、、まさに悪魔のカオスが押し寄せ、彼は窒息しそうになる。その直後、彼らの輪が乱れ、突然に青空が現れ、上空には鳥たちが、水平線の彼方にはクジラが見える。海の生物たち、植物たちが、進化を逆行するようにさまざまな生命が次々に現れついに原生動物から鉱物に至るのである。生命の発生の源にたどり着いたアントワーヌは、強い歓喜に包まれる。そして彼はあらゆる生物の中に入り込み、水のように流れ、光のように輝くことを望む。この望みこそが、実は悪魔の究極の誘惑なのである。Sa stupidité m'attire.( 彼の愚かしさが私を誘惑する)という一言を放つ。。。それが、悪魔に打ち勝つことだったのか、それとも罠にハマったのか、フローベールは語らない。
 このポリフォニーを聴いて、私は芥川の「杜子春」を想起した。だが、最後はあまりにも対照的に僕には思えるのだ。
 今日のところは、その本質には迫らず、東西の文学をつなぐ架け橋に漢字があるような気がしてならないことを書いておこう。それはあたかもキルヒャーが私に魔法をかけたの如くなのである。もっと書きたいことがあるが、もう少し辛抱強さをもって論じる力がつくまで、どうか待ってほしい。

------------------------------------------------
<来年の宿題>
・プーヴァールとペキシュ
・アタナシウス・キルヒャー
------------------------------------------------
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
●見出しの画像
ヒエログリフの文字(画像はお借りしました)
専門家は否定するが、たしかに象形文字にも私には見える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?