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小さな親切の日

小さな親切というのが運動となった日を記念したのだが、
東京大学の卒業式告辞で小さな親切を勇気をもってやってほしいと述べられたことに賛同し、運動になったことを記念した。1963年のことである。

2017年の6月13日の記事である。

親切に大きいと小さいがあるのか
良いことをした本人が謙遜して、
そう使う語法的な言い方か、、、、
道徳と倫理の違いについての議論があるが
語源はmoral か ethique
本来ほとんど差はなく、
カントのmoralかヘーゲルのethiqueかに帰着するが
私にとっては同じようなものだ。
ヘーゲルがカントを批判したのは
道徳的規範に任せてもいけない
道徳と法とが止揚しなくてはならない
と説いたが、
個人の善意か、全体最適かの議論と
同義な気がする。
親切はフランス語で
bontéとかgentillité
bontéの意味をみると
Domaine moral.
Caractère de ce qui est conforme au bon, au bien, aux valeurs morales 
reconnues favorables à l'épanouissement de l'Homme. 

人間にとって好ましいとされる
道徳的な価値がある性格
とある。
これは難しい。
ほとんど不可能に思える。
例えば、
モーパッサンの次の文章のように
悪徳と言えるbontéもありうるからだ
Le baron Simon-Jacques Le Perthuis des Vauds était un gentilhomme de 
l’autre siècle, maniaque et bon. Disciple enthousiaste de J.-J. Rousseau,
 il avait des tendresses d’amant pour la nature, les champs, les bois, 
les bêtes. Aristocrate de naissance, il haïssait par instinct 
quatre-vingt-treize ; mais philosophe par tempérament et libéral par
 éducation, il exécrait la tyrannie d’une haine inoffensive et 
déclamatoire. Sa grande force et sa grande faiblesse, c’était la bonté, 
une bonté qui n’avait pas assez de bras pour caresser, pour donner,
 pour étreindre, une bonté de créateur, éparse, sans résistance, comme 
l’engourdissement d’un nerf de la volonté, une lacune dans l’énergie, 
presque un vice. 

過ぎたるが及ばざるの簡単なところでは、
avoir trop de bonté pour qn
で、誰誰を甘やかすということになる

親切と思ったが
ありがた迷惑だったり、
良かれと思ったことが
偽善欺瞞になることであろう。
そのbontéが大小の量で比較できるかは、
ベルグソンの議論になる。
質的というか
近眼的で狭い見地で良いことというのはあるかも
しれない。
つべこべ書いたが
親切はやっていない。
 気をつけて 笊を出させる 新世帯

 江戸の人はお節介であった。裏返せばとても親切でもあった。
例年、事始めと事納めのときには、天から財宝が降ってくるという迷信があった。どんなファフロツキーズ現象かとおもうのだが、竿に笊をさげて、財宝を受け取るとよいとされた。新世帯というのは、恋愛結婚した夫婦を指し、当時はとてもめずらしい。新世帯というのは、世間知らずで風習などがわからないこともままあった。それで、ご近所さんが、笊を出したほうがよいと勧めるということを詠んだ川柳だ。「おい!新婦(おかみ)さんよ!
笊下げないと損しちゃうよ!」江戸っ子の声が聴こえてきそうな句である。

 なにか親切をするときに、気恥ずかしさみたいなものを感じる。
お節介ともとられかねないし、田舎者みたいに扱われると嫌だと思うのだ。
まずは、そもそも親切をすること自体にそもそも私は慣れていないのである。小さな親切大きなお世話という言葉が、大抵は曲解されている(大きなお世話の部分がお節介と認識される)ところをみると、どうやら私ばかりではなさそうである。
 絶対的な正解なぞ、人智を超えた知恵のみが知るところであろうし、
AIが発展して全体最適された解がわかったとして、自分の心情と合わない場合などもいくらでもあることを斟酌に入れれば、実は慮るべきでもないことに勿体をつけていることになる。
畢竟、そのときに自分が善と感じたことをやるのでよいのであり、ほかのことはできないのである。
 過去記事の中では、”親切はやっていない”と書いたが、
それはつまり、親切は”もらうもの”であるからである。親切を与えるというのはできない相談だ。それは相手がお節介と取る場合もあれば、親切ととる場合もあるからである。
 人と人との関係でこじらすとえらい目に合うから、ほどほどにと火傷に懲りて膾を吹くような機雷もある。生まれも育ちも違う人間が誤解もなくおだやかに過ごすなんて、坊主どおしでも喧嘩があるのに、土台無理な相談である。喧嘩もしながらでも親切をもらいながら生き抜く知恵を育てていきたいものである。

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