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国際平和デー

 国内外の闘争が続いているコスタリカの発案によって国連総会で9月21日に記念日制定された国際デーのひとつ。この日だけでも、停戦しようということだ。

なんか国際平和に関する日が、結構ある。いっそのこと365日になればいいが、そういうことをいうと、理想がすぎるのか。。。
国連憲章には、たしかにこうある。

Nous, Peuples des Nations Unies Résolus à préserver les générations futures du fléau de la guerre qui deux fois en l’espace d’une vie humaine a infligé à l’humanité d’indicibles souffrances,
à proclamer à nouveau notre foi dans les droits fondamentaux de l’homme, dans la dignité et la valeur de la personne humaine, dans l’égalité de droits des hommes et des femmes, ainsi que des nations, grandes et petites,
à créer les conditions nécessaires au maintien de la justice et du respect des obligations nées des traités et autres sources du droit international,
à favoriser le progrès social et instaurer de meilleures conditions de vie dans une liberté plus grande, Et à ces fins à pratiquer la tolérance, à vivre en paix l’un avec l’autre dans un esprit de bon voisinage, à unir nos forces pour maintenir la paix et la sécurité internationales, à accepter des principes et instituer des méthodes garantissant qu’il ne sera pas fait usage de la force des armes, sauf dans l’intérêt commun, à recourir aux institutions internationales pour favoriser le progrès économique et social de tous les peuples, Avons décidé d’associer nos efforts pour réaliser ces desseins en conséquence, nos gouvernements respectifs, par l’intermédiaire de leurs représentants, réunis en la ville de San Francisco, et munis de pleins pouvoirs reconnus en bonne et due forme, ont adopté la présente Charte des Nations Unies et établissent par les présentes une organisation internationale qui prendra le nom de Nations Unies.

この通りなら、どうやっても戦争という事態になることの方が難しい。

 昔から社会科が大の苦手であった。これを過去形で語っていいかどうかわからない。私は、これも酔狂なことに、毎年センター試験の問題(私の頃は共通一次と言った)をいまだに解いたりしている。国語とか英語とかは読解力が上がってきているため、そんなに点数は変わらないし、理科は趣味で勉強しているのもあって少し上昇傾向。数学だけはこれも勉強を続けているので、結構な高得点という状態だ。
 けれども社会科だけは問題の意味さえわからない問題がちらほらあり(苦笑)。社会人になって久しいのに、、、、もうこうなるとイデオロギーの違いではなかろうかと思うのである。私が受験生だった時代は、偏差値というのが競争の尺度であった。(興味はないが今ならほかの尺度なのか、でも果たしてそんな偏差値以外の尺度なんてあるのかな。。。)受験地獄とか云われた時代だ。
 競争が戦争を作るという仮設がぴったしくる。そもそも人と争いたい欲望をもっているのであれば、戦争もあって当然で、これをなくしたいとするなら洗脳が必要だ。ここでまた、思考が止まる。実は競争心こそ、洗脳の結果ではないだろうかと・・・まぁ私がnoteで展開している意見なぞ、こんなところで止まっていて、競争心を火消しするように汗をかいているだけである。そろそろ次のステップに思考を推し進めるようにしないといけない。

過去ブログを引用してみよう。

(批判めいたことを書くのであえてイニシャルでいう)
K女史の本を何冊か読んだ。
シングルマザーながらビジネス界で活躍し
テレビのコメンテーターとしても有名になっている方だ。
優秀な人という印象が強い
やっかみも入っているのだと思うが
正直 1冊もよく理解できなかった。
もはや イデオロギーの問題だと思う。
その方が楽々と今の地位を得たわけではないと きいても
なおさら理解できなかった。
頑張れば強くなれる という励ましの本だと
いうことにして本を閉じた。

こんな疑問は抱かないだろうか・・・・
モデリング効果を期待して、もしもK女史にあこがれて
同じような人生を歩みたいと思っている人がいたとして
何人がK女史のような人生を歩めるだろうか。

ちょっと問いの立て方がおかしいか・・・
K女史のようになれなかったシングルマザーがいて、
努力すればなんでもできるとか
覚悟の問題とか
いくらでも その人を責めることはできるだろう。
でも責めても意味がないのではないだろうか?
してみると K女史は何が言いたかったのか
私にはわからなくなってしまったのである。

(もちろん 私の読解力が不十分である可能性があるが
それはいったん置いておいて)

突き詰めると
才能は平等か とか 
努力や環境が整えば人は同じ才能が発揮できるのか とか
答えが出ない問いが生まれてしまう問題ではある。

さらに、アメリカの研究で
才能平等論や努力万能論が否定される研究が進んでいる。
(ある経済家はその結果を不都合な事実と呼んでいた)

そんなことを思い出していると、
競争を否定する私に 親友が忠告をしてくれた
親友の要旨は
明解で正鵠を得ていたものだ。
・競争することで自分の位置の確認ができるということ
・そして、競争することがきっかけで才能の開花につながることがある。
これはまったくその通りだと思う。

私自身のスポーツへの開花は(部活を頑張ったのは)
才能があったわけでもなく、
たまたま地区大会で好成績をおさめたことにほかならない。
この競争がなかったらスポーツを
続けていたかどうかすら あやしい。

友人は端的に 漢字小テストでのご自分の経験で語ってくれた
しかし、こうも言い添えた テストは苦しいと。

私の競争しないという言葉は
商売の文脈で
他店と競争しないことをモットーととしている。
という具合に使った
それは 客を人に譲りなさい というラディカルなものでさえある。
地域が発展すれば、いずれ自分も豊かになるという
一応はこれも自分が経営を通じて身体で覚えた実例の一つでもある。
(クオリアリズムという企画も、店作りの前に下地の街づくりというコンセプトだった。)

まずは、目的と目標の誤謬がある気がする。
そして、それは自分の言葉が足らないからだと思う。

漢字テストでいい点をとることは目標であって
漢字を覚えることが目的のはずであるという前提があることを
抜いて説明してしまったのかもしれない。

集客の数を競うのではなく
商売がうまくいって経営者を幸せにすることが目的である
といったことを抜いて説明していたのかもしれない。

”漢字を覚える一番のコツはもちろん
人に漢字を教えることである。”

さらに、それは商売でも同じである。
それがいいたかったのだが
”競争”という言葉が一人歩きしてしまった気がする。

競争に対して自分が負け組であるから
それに対してのコンプレックスから
競争を全否定のように無意識に強調してしまったのかもしれぬ。

そして そのコンプレックスが
K女史は競争のいわば勝利者(勝ち組)であり
負け組はシングルマザーとして幸せになれないみたいな
読み方をしてしまい、理解できなかったのかもしれない。

だけれど、負け組だって幸せになれるんだ
頑張らなくたって 勝たなくたっていいんだという
自分に言い聞かせているだけなのかもしれないが、

競争の先にあるものはその激化である。
受験競争が学力にある程度の影響はあるものの結果として
受験そのものが目的となってしまい、
学力が一時的なものに終わってしまう可能性がある。

価格競争はどうだろう。
それが企業に課せられた努力なら
それこそ努力無用論を振りかざしてしかるべきなのではなかろうか。

他店より安くしようとして
賃金をさげたりしてないだろうか
無理無駄をなくすことが無理なコストカットが社員のストレスにならないだろうか。

そして、
親友はここでも いいアドバイスの言葉を発していた

人には競争する欲があるんだ と

しかし私はなおさら その欲こそ捨てなければならない
無私の心境になって商売をすれば・・・云々
そういった意味の反論を説こうと思って 

思わず、言葉をつぐんだ。。。。。

どうしてだろう

私は人よりも早く時代を読んだからこそ
競争しない社会をつくるビジネスチャンスを考えることができた。
・年金が将来は不安定になる可能性(いまだって不安定かも)
・会社という形態は崩れ去るから新しい働き方を模索しなければならない
・個人事業主が主体となるビジネスが大きくなること

そして、人や家族からどんなに批判されようが
新しい働き方の時代が必ず訪れることを見越して行動を起こした。

今思えばこのかじ取りの転換は遅すぎるくらいだとすら思える。
(いまのところ将来の権利所得が得られる方向へ手がけている事業は流れてはいる。)
事業の成否や 将来に関する予想の真偽はともかく、
自分がかじ取りを転換したのは 
いったい なんのためだろう・・・・

自分は人よりも先回りして自分が目指すもの(安定)を得ようとしているが 
それを”競争”と呼ぶのではないだろうか。

人よりも安定したいから先回りしたのであるから 
それはとりもなおさず競争の欲でなくてなんだろうか!
そんなことを考え、やはり友人のいう通りだと思った

そして決心という前に
言葉は選ばねばいけない
・競争はいい目標になりうるが目的にしない方がいい
・商売は競争かもしれないが
 競争で勝っても新たな強敵が出てくるだけである
・その無限地獄から解脱する方法はある。

こういえば納得するだろうか
幸せになるためにやっているのだから
もう一度 K女史の本を読み返してみようか・・・

いや、その前に 親友に相談してみよう

 noteを含めてアウトプットすることの意義は、自分がわかっていないことをわかるようになる。なるべく偉そうにnoteを書こうとしているのだが、それは、見られる効果で自分の学力をあげようとしているのである。競争もないのに、なんで学力をあげようとしているのかというと、もはや一つの趣味である。そんな趣味をもっていると世間とは会話できなくなってくる笑
それは、こんな具合である。
 中国とアメリカが通信技術をめぐって経済戦争中であるという。私には意味がわからない。共同研究すればいいのに・・・と、どうしても思ってしまう。どうして争う必要などあるのだろう・・・と。
 この意見はたいていの人と反りが合わない。その会話には、民主主義なんて言葉も出てくる、社会制度に関するイデオロギーとIT通信規格は別の話であるのに、いったいどうして、そんな言葉が出てくるのか・・・わからない。
 まぁ 今日はこのへんで筆をおこう、わからない問題を書こうとしても仕方がない。

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<来年の宿題>
・トルストイ「戦争と平和」再読
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●見出しの画像
国連憲章のマーク(画像はお借りしました)

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