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たまごかけごはんの日

日本たまごかけごはんシンポジウム実行委員会が10月30日に記念日を制定
なんで今日なのかは判然としないが、卵の品質がいいのと、新米が美味しい時期だという。。。それはスポットで今日というわけでもなかろうが、今日は何の日はスポットなので、まぁ今日だということである。

フランス語の次の記事でも10月30日が卵かけごはんの日であることを伝えている。

Le 30 octobre, c'est le jour du tamago kake gohan au Japon (卵かけご飯)

たとえキッチンに何もなかったとしても、簡単にこのレシピは実現できる。
あなたがやるべきことは、ごはんをよそること、そして、卵を割ること、以上である。(できればごはんは圧力鍋で炊いた粘り気があるものがいい。)

Même si vous êtes nul en cuisine, vous devriez parvenir à réaliser cette recette sans difficulté. Tout ce qu'il faut savoir faire, c'est cuire du riz (du riz gluant avec un autocuiseur serait le top) et casser un oeuf.
●gluant ... 粘り気

文字通り、卵かけごはんというのは、”ごはんの上に卵ソースをかけたもの”
である。これは日本では非常に人気があり、朝食でよく食べられているのだ。炊けたごはんとかき混ぜた生卵で構成される。醤油をかけたりかけなかったりする。

Littéralement, le tamago kake gohan est une "sauce d'œuf au-dessus de riz" . C'est un plat populaire japonais, souvent mangé au petit déjeuner. Il consiste en du riz bouilli mélangé à un œuf cru battu, avec ou sans ajout de sauce soja.
●battu ... 敗者を表すのが普通の使い方 ここでは泡立てられたの意味

フランスで弁当の文化が流行ったことがあった。
異国からみると、思いもつかなかった意外性(こんなことが意外なんだぁ)がある。

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さて、卵かけごはんは読者の皆さんはどのように食べているだろうか・・・
さらなるトッピングの話をしていこうと思う。
参考文献:卵かけごはんの本
上記を眺めるとネーミングセンスが光る。
たとえば063にエントリーされているのが、”失敗しないT.K.G
レシピは、すき焼きのタレに七味唐辛子と海苔、そして刻みネギである。

ここですべてを紹介すると本を買う人が減ると困るので
大づかみに、あげてみよう。
ほとんどが、”ごはんのお供”である

使われている具材:
 しらす、あじの干物、海苔、納豆、バターなど・・・
 ツナ缶、オクラ、豆腐、めかぶ、お茶漬けの元、
 オイルサーディン、マグロ&韓国のり、青じそ、アボカド
 タラコペースト、サーモン、いかキムチ、とりわさ
...などなど 

こういう話題になると、いつも思い出すのが ヤマメの卵である。
金色である

スクリーンショット 2020-10-30 7.52.51

これに鶏卵の黄色が混じれば黄金の卵かけごはんになる。
機会あればやってみたい。


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10月30日の補遺:

昨日のことでもうしわけないが、ライプニッツに熱中しすぎて過去ログを引用するのを忘れてしまっていた。10月29日はホームビデオの日だという。
世界初となる家庭用VCR規格が発表された日とのことである。

今日はホームビデオ記念日
ホームビデオで少し苦い経験がある。

ある御夫婦に招かれ、
息子さんの運動会のホームビデオを見させられた。
息子さんが羽生結弦くんであったなら
もしかするとあんなに退屈することはなかったかもしれない。
でもそれは失礼だろう。

でも、量を減らすのに気を使っている煙草を
あれほどまでに吸いたいと思ったのはなぜだろうか・・・・

ビデオ映像の主人公は息子さんでなくむしろ父だった。
だから最初はよかった。

早朝に起きた甲斐があり、
いいアングルで息子さんが走る姿が見えた。
父は、違う競技では、このアングルでは不安があったから
ここからの移動がまた大変だったと語る
苦労を推し量るとこの映像はたしかに貴重に思えた。

しかし 再生にかかる時間は僕には長かった。
くだらない映画なら席を立てばよい
TV番組ならチャンネルを変えればよい
しかし途中退席が不可能だった。
そして寝てしまうわけにもいかなかった。

その父はうまく編集してあった。
無駄な尺は削り 画面が切り替わるワイプにも工夫が見られた
退屈にならないよう音楽も加えたりもしていた
苦労を推し量ることができた。

それなのに眠くなるのはこっちの問題だった

でも眠くなってしまった。

話題を切り替える隙を映像は与えてくれなかった。

過去ではなく未来を語ることもかなわなかった。

これが拷問なら”私がやりました”といえば解放してくれるだろう
でも、そんな機会は与えられなかった

目の前のコーヒーにすがったがそれも飲み干された後だった

ほかのオーダーをするわけにはいかない

目の前に流れる渾身の映像を見る以外の一切の手段は排除されていた

ビデオ再生が終わったときに
眠気をこらえすぎたのか後頭部に疲労痛を覚えた。

それとともに恐ろしいことに気が付いた。

息子さんは小学4年生
ということは 来年は小学5年生になる・・・・
おそらく運動会がなくなることはないだろう。
バージョンアップされた新年度版が編集されることだろう。

恐怖は別の恐怖を連れてくる。
結婚式のビデオも同じことが起こるだろう。。。。


ホームビデオ記念日は民生用(家庭用)のビデオはU規格にしようと
大手3社が決めたことを記念している。1969年のことだ
(恐ろしいことに私はすでに生まれていた)

私にとっては恐ろしく無駄な決定だが、
これでメーカー各社にとっては無駄な商品を作らなくてよくなったのだから
むしろその逆の決定だったろう

U規格はオープンリールをカセットに収めることに成功した。
その後 VHSやベータなどの規格に枝分かれしていってしまうが
この規格の本当の成功は映像でなく音だ。
PCMプロセッサが開発され、アナログからデジタルに変換する技術が
マスターテープとしての役割をこの規格に与えたのだ。

映像を記録する帯域をすべて音に捧げてDATが誕生したということだ。
僕が面白く感じるのは
アナログをデジタルに変換するときに

”量子化”という物理学チック・数学チックな言葉で呼ばれる作業が必要になることだ。
古典力学では連続であったが、量子の世界では離散的に飛び飛びに観測される

これを数式で表すのに苦心したのが量子力学である
PCMプロセッサはいわばこれを逆手に取った
連続したものを飛び飛びの値で近似できることを使って記録される情報を
大幅に減らすことに成功したのである。

今日のデジタル技術は量子化とよばれる作業が基本だ。
いわば小型する技術が
私を長時間映像の前に縛り付ける効果を発揮したのだ。

技術自体は連続したものをとびとびで近似している一方で
私に対しては連続した拷問を強いたのである。

テレビ番組編成では”見せ場”を分散させて、引きつける
(すくなくても次のCMまでは)

ところが、この見せ場自体を圧縮して
よいところだけ垂れ流すことだってできる
つまりは”間”を削除できるのだ

そこには想像力や思考力が入り込む隙はもはやない。
これに無理やり広告をねじ込ませて歪な世界が出来上がっている。

それが、今日のインターネットの世界であるように思える。
若者は もはやテレビはみない。
動画配信サイトをみて 甘いところだけ掴み取る。

とはいえ、人間は興奮だけ与えられても飽きてしまうので
そのうち沈静化する方向もあるだろうから恐怖は杞憂だろうと思う。

過激な専門家がいうほど人間は馬鹿ではないとは思う。
でも、それは適度に刺激をコントロールできるからだ

動画を見続けると静かな音楽がききたくなる
ならそれをすればいい。
でも、この選択の自由が奪われ、動画を見せられ続ける恐怖を
想像できるだろうか?

しかも、見せる方は すべてが見せ場なのだ。
見せられる方は言語にしがたい

それでも、人間はそれほど馬鹿ではない
父は帰り際 こういってくれた
”親ばかですみません”と

来年はおそらくビデオ観賞会は行われないと思う。
親ばかは、
親が喜んでいるだけからだ、それはわが子を撮影したからである。

それでは 息子さんはどうだろう
そのビデオを見ることはあるのだろうか
もしかしたら結婚式のとき持たせられるかもしれない・・・・

そして、それを見る機会はおそらくないのだ。

記録媒体はどんどん変わる。
ビデオ撮影の機械本体からパソコンへ、
パソコンのハードディスクが圧迫されるとDVDやブルーレイへ

そして 押入れに入れられる。

そこから出ることはないのかもしれない。
そして出ないことが所有したといえるのかもしれない。

思い出を所有する それにビデオが必要なのか?
終活でもそうしたビデオはどんどん捨て去られる。

脳の記憶装置の方がよっぽど優秀で
観たいところだけいつでも再生可能だ
観たいときに真実は必要ない
エアーでよいのである。

真実が必要なのは監視カメラの画像で十分だ。
たとえば、有名なジャズのセッションがある
その場で当意即妙に奏でられた演奏について
伝説になることだってある

それを録画したビデオは高額で取引されるだろう
予定されたものでなく偶然収められたからだ。

予想を超えたセッションが繰り広げられたその音楽は
あとから再生されるだろうか・・・
おそらくされるであろうと思う。

映像博物学としてそれは永久保存されるだろう。
でも本当に私たちがききたいのはそれだろうか?

思い出として語られた方がいいこともないのだろうか・・・
新橋から横浜まではじめての電車の車窓映像が
あるいは運転席展望が
ビデオに収められていたとして 
それを見たいだろうか?
たしかに見たいと思う。

けれども一度見ると終わってしまう・・・・
花は散りゆくから美しい
人間は死ぬから尊い
手に入れないから、所有されないから尊い。

そんな演奏を”これからも”聴きたいし
そんな映像を”これからも”見たい
と思う。

結論を量子化して(巻きで)急ぐと、

だから実はホームビデオは貴重だ。
二度とみることも おそらくないからだ

でもこう言い切るのはダメなのだ。
いつでも再生できるように記録する
でも再生されない。


ホームビデオはきっと、そこに価値があるのだ。

このホームビデオを私にみせたご夫婦はこの記事を読んだらご立腹だろうか。多少誇張して書いてしまったが、事実はほとんど引用の通りである。
ビデオに記録する、でも終活で捨てられる。
その幻のような記録は意味があるのか・・・
でも仮りそめにもそれが、ビデオに限らず所有するということであろう。
断捨離する気持ちがわかる気がする。

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<来年の宿題>
・ごはんのお供の研究
・ザーサイについて
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