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空堀の記憶〜テレビのはじまりから〜

(空堀の記憶第16夜メモ 2023/9/4)

今回のゲストは、現役の舞台装置家であり、空堀在住の竹内志朗さん。初のWikipediaに載っている人かもしれない、、、。

竹内志朗さん

プロフィールから

竹内さんは先日90歳のお誕生日を迎えたばかりの昭和8年8月29日生まれ。現在も、現役の舞台装置家として活躍中。舞台装置以外にもテレビや映画のタイトル文字、CM制作などでも長年活躍されてきている。たとえば、“新婚さんいらっしゃい”や“探偵ナイトスクープ”のタイトル文字などは竹内さんが手がけられたものである。

当日は、ご近所さんをはじめ、竹内さんが舞台監修をされている劇団の方など、竹内さんを慕う方が多く参加されていた。

カフェタロイモ

竹内さんのお孫さんがかつてタロイモという名前のギャラリーカフェをされていた。竹内志朗さんの展示が行われていた時期もあった。その時は、竹内さんとお会いすることは叶わなかったが作品はみたことがあった。ちなみに、このカフェは、コロナ禍で閉店してしまった。

cafe・galleryタロイモ
cafe・galleryタロイモ
cafe・galleryタロイモ

コーヒーも食事も美味しくてちょうどよかったし、ギャラリーとしての空間も好きだっただけに、閉店は今でも残念だなーと思っている。(復活しないかな)
ちなみにお孫さんはギャグ漫画描きさん。

お仕事の話から


では改めて、竹内さんのお話へと。
大阪で最初の民放である大阪テレビが開局した24歳の頃に文字書きの仕事が、この世界に入るはじめだったそう。

※1956年12月1日に大阪テレビ放送開局。当時テレビ局はNHKしかなく、朝日放送や毎日放送の源流となる初の民放テレビ局。(今のテレビ大阪とは別もの)
ちなみに、当時のテレビ番組は、長くても30分番組だった。と、いうのも3人がかりで操作する重いテレビカメラ、録画ができない時代ということもあったので、長尺番組はできなかったとか。

仕事の様子は、というと、20代の頃はほぼ泊まり込み。それは、ニュース速報があったら即座に対応しなければならなかったから。もう1人の若手と交代で泊まり込んでいた。
ニュース速報なので仕事は他の局と競うようにスピード勝負だった。書いた文字をすぐ乾かすためのドライヤーが準備されていた。そんな即報の文字書きは速く文字の書ける若者の仕事になっていた。しかし、賃金はほんのわずかだったとのこと。
また、開局直後のテレビ局の建物には文字書き担当者の専用アトリエがなかったので、倉庫を改装して使っており、高くない天井に発熱灯が照り付け、とっても暑かった!

デジタル文字になるまではテレビに出てくる書き文字は全て手書きだった。

竹内さんには、師匠と呼べるような人がいなかった。(東京には師弟制があったようだが大阪にはなかった)先輩についてまわったり、新聞の書体を切り抜いてゴシック体や明朝体の形を学んだり、相撲、歌舞伎など決まっている書体についても、大阪ー東京間を夜行列車を使って日帰りで何度も見てくるなど、独学で技術を取得されてきた。
また、舞台装置についても、さまざまなジャンルの芝居をみては、暗がりの中で色んなシーンのスケッチを描いていた、などこちらも独学で学んできたとお話しされた。

テレビ業界のお話の中にはテレビドラマ必殺仕事人の書き文字のエピソード(タイトル文字は竹内さん作ではありません)や、同じく必殺仕事人の主演を務めた藤田まことさんとのエピソードなどもおり、ファンであってもなくても、ワクワクするお話がたくさん。

空堀での少年時代


では、竹内さんの空堀エピソードへ。
生まれも育ちも瓦屋町で、金歐小学校(場所は現在の中央小学校)卒業。
幼少期は瓦屋町一番丁(旧南区)の路地の中ー商店街を少し見下ろせるところーで暮らしていまた。その後、空堀の中で転居され、現在暮らす瓦屋町一丁目に至ったとのこと。
戦時中は、小学4年生から加古川に疎開しており、終戦は小学校6年生で、疎開先で迎える。田舎は農作業など重労働もさせられていたので大阪に帰れるのが嬉しかった。
終戦後は、新制中学校になったので、南中学校(今のアメ村、ビッグステップのところにあった)へ通っていた。

空堀商店街は幼い頃から今でも馴染みのある場所。子どもの頃は、公設市場(今のスーパーサンコー)がスロープで2階に上がれたので、このスロープが遊び場だった。桃谷小学校(今の空堀桃谷公園)の近くー五十軒筋と空堀通りの角に戦前、畳屋さんがあり、なぜか建物に電車の窓があり、好きでよく見に行っていた。空堀商店街の真ん中あたり、寄席小屋だった澤井亭にも行ったことがある。150人から200人ほど入ったような覚えがあるなぁ。後年、ミヤコ蝶々やエンタツアチャコなども澤井亭で出演したことを知って驚いたとか。
他にも松屋町筋の地下鉄計画があったこと、タニマチの語源ともなったすすき病院のこと、銀杏湯をはじめとする風呂屋があちこちにあったことなどいろんなエピソードも。

そして、実は料理人にもなりたかったと言うくらいお料理もお好きな竹内さん。

頭に地図を浮かべながら、魚屋のぬのめ、鰹節の丸与、昆布土居、と空堀商店街の名店をスラスラと。
心斎橋のとある昆布屋さんのコマーシャル制作をしたときに昆布炊きのレシピを教えてもらって、自分でも炊き始めた。その昆布は昆布土居で切ってもらっていた。1kgもの大量に昆布を買っていたので土居さんからも『何に使うんですか?』と驚かれたが、昆布を炊いているとは言えなくて・・・と。

たくさん炊いた昆布は、趣味のスキー仲間を中心にあちこちに配っておられた。ちなみに、竹内さんはご自身の会社名をSPURとするぐらいスキーが趣味で、信州や北海道など行ったそうで、その先でもたくさん友達ができたという。

商店街の変化のお話しでは、松竹堂さんの閉店をはじめ馴染みのお店がなくなっていくことを寂しく思われていた。竹内さんにとって、空堀商店街は子ども時代から今も、そしてこれからも、身近な場所である、ことを感じるコメントが多々あった。

道頓堀と芝居小屋

舞台や芝居の世界に興味を持ったきっかけは、子どもの頃にお母さんに連れられて歌舞伎や芝居をあちこち見に連れられたことから。

空堀から道頓堀までは歩いて15分ほどの距離。
当時、道頓堀には大小さまざまな芝居小屋があった。大阪松竹歌劇団(現・OSK日本歌劇団)の本拠地でもあった千日前の大阪劇場(通称大劇)の地下には遊園地があるなど、芝居がレジャーの中心だった。
たくさんの芝居小屋があったので、それまで四ツ橋にあった文楽座が道頓堀に移転してきたというぐらい。
※現在は、文楽座に代わって国立文楽劇場として大阪市中央区日本橋1丁目、高津小学校跡地にある。

また、道頓堀川に架かる戎橋には貸ボート屋があり、中学校の帰り道に友達と寄って、中之島まで回って一周して戻ってくる競争をしたエピソードも聞かせてくれた。

面白エピソードいろいろ

親が高津宮の(当時の)宮司さんの娘との結婚を目論んで高校生の時に神主の資格を取ったこと。結婚式の祝詞を2人ほど挙げたことがあるなど意外すぎるエピソードまで飛び出てきた。ちなみに、その後芝居をするようになったので、親も諦めたようだと。

他にも書ききれないくらいの面白い話題がどんどん出てきていた。
黒柳徹子さんをはじめ、まだ元気な同世代がいるので、負けられないと仰っている。

そして、竹内さんに負けないぐらい覚えておられる地元の方の合いの手、などなど楽しいひとときだった。

当日のまとめ
当日のまとめ

公式ホームページ

ご本人はアクセスできないそうだが、スタッフの方が作られている、竹内志朗さん公式ホームページにもぜひアクセスを。


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