物語は続く④~藤井竜王名人と永瀬さん

王座戦5番勝負

このシリーズ(勝手にシリーズ化してます)の最初の物語となった王座戦挑戦者決定戦。自分の中ではあの時すでに八冠は王手でなく確定であった。(たぶんそういう人は多かったに違いない)それがどうだろう。脱人間宣言で臨んだ王座の覚悟と気迫の前に竜王名人が押されっぱなしとなるまさかの展開の連続が待ち受けていたとは。

振り駒で竜王名人の先手番が決まった時、棋聖戦のようにまた千日手の攻防か、と始まる前から少しうんざりしてしまった。蓋を開けてみれば、竜王名人が若干リードしながらもなべ先生によれば「見たことのない駒の大渋滞」で「こっからどうやって勝つの?」の言葉どおり攻めあぐねてるうちに逆転され、終盤は完璧な差し回しで王座が完勝。王座の強さばかりが目立った第1局だった。

タイトル戦で連敗したことのない竜王名人、第2局は何とか踏ん張って後手番ながらリードしたが、入玉を目指す竜王名人らしくない将棋で、終盤本家に猛追されてひやひやしたものだ。最後はこれも「ゴールで決めなさい(詰ましなさい)」という盟友という名の敵からのパスを受けて、何とか詰み。対局が終わって印象に残ったのは、終盤の一見往生際の悪い粘りと、うらはらに粋なアシストをした敗者のほうだった。

名局、意味ない

そして第3局,第4局。これはもう竜王名人の必敗の将棋だった。挑戦者決定トーナメントの村田戦のように渾身の勝負手を繰り出したわけでも、豊島戦のように王手で運命の2択を迫ったわけでもなく、極限状態で指し続けた王座がそれ故にエアポケットに陥ってしまって起きた悲劇だった。(精神状態も含めてそこまで追い込んだのは紛れもなく竜王名人なのだが)研究パートナーで力が拮抗している2人の将棋は互角が長く続き、最後は1分将棋になるのでどれも熱戦、激戦だが、時にかけひきが過ぎて名局とはちょっと違うと思っていた。だがそんな名局の定義などいかにどうでもいいものかを思い知らされた。その瞬間、悔恨、怒り、やるせなさ…周到に準備に準備を重ねて極限まで神経を張り巡らせて完成寸前だった作品に取返しのつかないほころびを発見し、感情を爆発(しかも声を出すことができない)させた王座に多くの人が衝撃を受けたことだろう。どんな時も目の前の将棋に恐ろしいまでの集中力で没頭しているただ一人を除いて。(竜王名人が王座への情緒的感情で辛そうだったなどというコメントは、全身全霊で勝負に徹する棋士に対して失礼、とだけは主張しておきたい)こんなにも棋士は激流のような感情を封じ込めて、あの小さな盤上に広がる宇宙、もしくは深海の中でもがき、苦しみながら将棋を指しているのだ、と打ちのめされた。そしてそれはたぶん王座だけでなく、静かな佇まいの豊島先生も、飄々とした会長も、紳士的な谷川先生も、クールな自虐に溢れるなべ先生も皆同じ激情を抱えながら闘っていたのだと気づかせてくれた。だから、AIがどんなに強かろうともこんなにも人の心を揺さぶることはないのだ。かくして、八冠誕生の舞台となった王座戦の主役は最初から最後まで永瀬さんだった。

それでいいと思う。八冠の物語はこれからも続き、盤上の物語は一人では作れないし、主役は一人ではないのだから。対局後、感情の乱れを顕わすことなく再出発を宣言した永瀬さん。前回の記事で書いたが、来週はさっそく名人への挑戦をかけた順位戦で、誰よりも痛みと再生を知る豊島先生と対局する。ひとつの物語が完結すればまた新たな物語が生まれ、物語は続く…。

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