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"居場所の時間構造"についての思索メモ

居場所作りの団体を運営するなど、私は大学生の頃から居場所活動に関わってきたが、社会人になってから、「居場所」というテーマの見え方が随分と変わってきた。

端的に言えば、「養ってもらう立場」から、「自分で自分の食い扶持を確保できる立場」に変わったことが大きい。

おそらく、小さなベンチャー企業でマネージャー的なポジションを経験したことも関係しているかもしれない。「自分たちの力で事業を回していく」ということに一度真剣に向き合うと、私たちの生活に当たり前に存在している様々なものが、一体どれだけの労力によって成立しているのかと想像するようになる。コンビニに行く時も、この一つ一つの商品やシステムの裏にどれだけの努力があるんだろうなーと想像し、素直に感謝できるようになってきた。「当たり前の日常」は当たり前じゃない、という使い古されてきた言い回しを、実感をもって理解できるようになった。

今になって思うと、学生の頃の私は「居場所の問題系」の非常に狭い部分しか捉えられていなかったのだろうと思う。当時の私は、「居場所」を純粋に場所作りの問題だと捉えていて、システム的な問題として捉えていなかった。「居場所」というシステムを成り立たせている諸条件のいくつかが見えていなかったし、もし見えていたとしても、非常に解像度が低かった。

居場所や自己肯定感の問題は、しばしば「何もしなくても居られること」「このままの自分を肯定できること」という風に表現される。

しばしば「条件付きの肯定/無条件の肯定」という単語が対に出されるように、能力や努力に基づいた肯定感は質の悪いものと見なされ、そういった条件に制約されない肯定感こそが目指すべきものとして掲げられる。

このような概念設定自体を否定するつもりはないが、これらの概念は「今・ここ」にしかフォーカスされておらず、居場所をシステムとして捉える視点に欠けていたのだと思うようになった。

冒頭で述べた通り、一人の人間の中には「何もしなくていい」という声と「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という声の両方があり、一般に、人はこの2つが日没と日の出のように繰り返される時間構造の中を生きている。この「繰り返し」の時間構造こそが重要なのであって、「何もしなくていい」という声だけにフォーカスすることは問題を正しく捉えていないのではないだろうか。

使い古された言い回しだが、太極図のようなものだ。


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居場所が「何もしなくても居られる場所のこと」という定義は間違っていない。だが、それをシステムとして成立させるためには、それと対を成す陰の部分が必要になる。陰の部分を丁寧に作り込んでこそ、陽の部分が安定する。逆も然りだ。学生の頃の自分は、そのことをよくわかっていなかったのではないか。

人の中には少なくとも二つの人格がある。親の人格と子供の人格、というふうに書いてもいいのだが、ここでは「扶養する自分」と「扶養される自分」と表現しておこう。「扶養する自分」がしっかりしていて、それに十分に寄りかかれるからこそ、「扶養される自分」を謳歌できる。

サラリーマンで言えば、日の出ている間は働き、夜はゆっくり休む。という時間のリズム。昼のうちに「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という声を、一度天の上で燦々と輝かせてこそ、夜は地平線の下に沈めることができる。だからこその時間構造。※1

ネタバレになるが、「居ること」をテーマにした東畑さんの書籍「居るのはつらいよ」では、最終的に「会計の声」が居ることを脅かす犯人として発見される。

「会計の声」とは、安穏とした陰の時間を脅かす、陽からの声。「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という側から漏れ出てくる声だと思う。これは医療者や福祉の従事者としては非常に納得のいく意見ではあるが、一方で中小企業の運営者としては、じゃあどうするの?と疑問が浮かぶ結論でもある。

だって結局のところ、生きていかなければいけないのだ。根本的な条件として、人間が「何もしないこと」を会計の秤に乗せて考えてしまうことは、避けられないのではないだろうか。人間は生活をやっていかなければならぬ。「会計の声」を悪と糾弾することはできるが、失くすことはできないのだ。※2

だからこそ、争点になるのは、陰の時間と陽の時間をどう区切るかだ。一人の人間の中には「何もしなくていい」という声と「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という声の両方がある。「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という声という声が、「何もしなくていい」という声を圧倒し、殺さないようにしなければならない。この二つの声を、両方とも、適切に自分の中に保存すること。彼らが私の中で、共に生きられるようなルールを設けること。そのための時間構造。

演劇サークルの中に、私がやっていた居場所活動に興味を持ってくれていた先輩がいたのだが、しばらくして彼が就職した後に悩みを語り合う活動をしたら、「働いたら学生のころの悩みが全部消えた」という趣旨のことを言っていて驚いたことがある。学生の頃は、常に何かの不安に急き立てられて、ずっと泳いでいていないと死んでしまうようなマグロのような人だと思って見ていた。明らかに彼は「働きはじめたこと」によって安定していたのだ。

ほどなくして私も社会人として働き始めて、彼が言っていたことに納得がいった。ああ、「上司」という存在の素晴らしさよ。いつまでに何を目標とすべきなのかを、自分よりも優秀な人間が一緒に考えて決めてくれるのだ。これほど安心なことがあろうか。

学生の頃は「何もせずにどんどんと時間がすぎていくこと」は、非常に恐ろしく、居心地が悪いことだった。恐ろしいのに、何をすればいいのかもわからなかった。すでに単位を取り尽くしていたにも関わらず就職留年した大学5回目の夏は、楽しかったが、常にずっと不安に追われていたのも事実だ。周りは大学院や会社に行き、何か課題をこなしているにも関わらず、自分は家でなろう小説を読み耽っている(この時期、Web上で「本好きの下克上」を読みまくっていた。全600話近くあり、一周するのに3日くらいかかるのだが、多分1年で5周くらいした)。「このままでいいのか?」という声がずっと聞こえていた。せめて親に負担はかけまいと、食費はできるだけ節約した。日曜日になると、鶏ムネ肉とキャベツをたくさん入れた1食150円の具だくさんうどんを1週間分作りためては冷凍していたが、それでもご飯を食べるときに若干の罪悪感があったのは事実だ。

自分が社会人になって明らかに変わったことは、「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という声に怯えなくなったということだ。1日8時間働くことはなかなかに苦痛ではあるが、平日1日8時間働けば、あとは休んでも問題がないハズだ、ということが分かっている。

とはいえ、部下から上司のポジションになると、また状況が変わってくる。ベンチャー企業に転職してすぐに上司が辞め、いきなりCTOに抜擢された。休日に障害が起こると自分が対応するしかない(他にエンジニアがいないから)。サービスが止まればその分売り上げは減り、他メンバーに支払える給与に影響が出かねない。締め切りまでに間に合うかどうかが不安になり、休日でも「来週、緊急の打ち合わせがいっぱい入りそうだし、インターン生もなんか稼働が不安定そうだし、今のうちにコードを書いておいた方がいいんじゃないか・・・」みたいな発想が頭を掠める。

こうなると、プロジェクトマネジメントを自分で学習しなければならなくなる。いつまでに何をやればいいのか。どんなリスクが起こりうるのか。メンバーの稼働量のコントロールはどうしたらいいのか。事前にもろもろの計画を立て「なんとかなるだろう」という見通しをつけるのだ。

プロジェクトマネジメントを学習してよかったことは、自分の中の不安と対話する方法が身についたことだ。これは他者に対しても同様で、後輩のキャリアの不安を聞き、やりたいことを聞き出し、目標を立て、学習や稼働の計画を立てる。それによって将来の見通しをつけていく。「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という声を聞き、ちゃんと言葉を当ててあげることで、これらは「何もしていない時間」を脅かさなくなる。

今の私が、休日をslay the spire(めちゃ面白いインディーズゲーム)で丸一日溶かした時と、大学5年生の私が、本好きの下剋上を200話読んで丸一日溶かした時とでは、明らかに異なる体験になっている。今の私は「何もしなかった1日」に耐えられるようになった。今の私はフリーランスエンジニアだが、「今月はこのくらい稼働すれば食っていける」という計算があって、それを踏まえて丸一日ゲームしている。「いつか/どこか」で働いている自分によって、「今/ここ」で一日中ゲームしている自分は支えられているという安心がある。今の私はコンビニ店員の態度が悪いとイラっとしていた頃の自分ではない。日常の当たり前がどのように守られているかを想像し、自分もそれを支えている一部であるという自信がある。

「今/ここ」の「何もしなくていいよ」という感覚は、「いつか/どこか」の「扶養する自分」によって支えられている。※3

仮に「何もしなくていいよ」という声が自分の全時間を覆ってしまうと、それは、「扶養する自分」の人格が表に出る時間が奪われてしまう。すると、「何もしなくていいよ」という声は支えを失い、また不安が回帰してくる。「何もしなくていいよ」という声が自分の全時間を覆ってしまうと、むしろ「何もしなくていいという感覚」は支えを失うのだ。

「何もしなくても居られる」という点だけにフォーカスして理想の居場所を考えていると、この陰と陽の構造を忘れ去り、中世の物理学者の考えた空想の永久機関のようなシステムを生み出してしまう。

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(引用元:トヨタ産業技術記念館

永久機関を作るためには「永久に水車を回せばいい」という考え自体は間違っておらず、そのためには落ちた水を再び上に組み上げればいいということも間違ってはいない。水車の回転エネルギーを使えば、水を上に組み上げることができることも間違っていない。だが、システムとして組み上げた時、水車の回転が水を上に組み上げる負荷に打ち消されて、このシステムは全く動作しなくなる。水車を回すためには、結局外部からエネルギーを入れなければならなかった。

居場所というシステムを考えていると、いつも似たような問題に入り込む。一個一個の因果関係の理解は間違っていないのだが、それらを組み上げた途端、全く機能しないシステムであることが発覚する。

中世の物理学者たちは、システム全体のエネルギーの収支を見落としていたが、私が見落としていたのは時間構造だ。居場所の時間構造。「今ここ」の自分が「何もしなくても居られる」時間を享受するためには、「何もしなくても居られる」時間を支えている時間構造が問題にならなければならなかった。

もちろん、ここで述べたことは明らかに自分の体験に寄っており、おそらくかなり偏った意見になっていると思う。現在の私が経済的に恵まれているがゆえの意見だろう。

「何もしなくていい」という声と「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という声を対話させるのはそれなりにキツい。化学反応のエネルギー図で例えるならば、「①対話なし->②バチバチ対話させる->③対話がうまくいって良い関係が築かれる」の流れには、下図みたいな関係があるだろうなと思っている。③の方が①より安定なのだが、①->③に至るためには②の状態を乗り越えねばならず、ここを乗り越えるためには、エネルギーや能力がいる。ここを乗り越えられるのは一握りだろうし、生存バイアスみたいなものがある気がする。

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だがやはり、「何もしなくていいよ」という声を作る、という目標を追いかける時に、しばしば自分の中に『「扶養する側」の人格をしっかりと作ること』の重要性が忘れ去られやすい土壌はあるような気がしている。なんとかして会計の声を消そうとする戦略が取られることがあるが、半数以上の状況においては、それよりもその声を適切に言語化し、それを担える人格を自分の中に作っていく方が早いのではなかろうか。

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※1 とはいえ、明治から令和への労働環境の変化に伴い、「朝から夕方からちゃんと働けば、夜ゆっくり休める」という時間の区切りは崩壊しつつあるだろうけれど。

※2 ニートを続けられるのは一部の才能があるやつだけ、という話と同じことを言っている。もちろん例外もいるが、大方の人間は自分の中に「会計の声」を持っており、それゆえ「何もしないでいること」に耐えられない。もしくは、何かやっている方が安心できるであろう。
 経済的な問題については、究極的には、分配の問題が解消されるなら、人間は働かなくてもいいと思う。私の主張は「なぜ働かなくてはいけないの?」 "経済"とベーシックインカムの思索メモにまとめた。私たちが働かないと安心できないのは、この分配の問題によるところが大きい。

※3 ここは、「何もしなくていいよ」という声と「何か価値のあることがしたい(しなきゃ)」という声を対比させたいところだが、この二つが対立しているのは純粋に分配問題の条件による制約に過ぎない。つまり、今の経済が「何か価値のあることをする」ことで、生活に必要な資源が分配されるという構造になっているからに過ぎないだろう。


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