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「なぜ働かなくてはいけないの?」 "経済"とベーシックインカムの思索メモ

これは今の私の仕事での役割とは一切関係のない話で、完全に私個人の趣味として考えていることではあるのだけど、昔から「なぜ働かなくてはいけないのか?」ということがずっと気になっている。※1

これは私が就活生の時、いや、ずっと以前から気になっているテーマだ。気になりすぎて、いざ自分が就活生になった時に、株式会社パソナの就活生向けのグループワークで、「働きたくないんですけど、なぜ働かなくてはいけないんですか?」と発言してみたこともある。(進行役の社員の人からすれば、さぞやりづらい回だったことだろう。「お前、何しにきたの?」と思われたに違いない。)ちなみに、その時の社員の人は、ちょっと悩んで、「あなたの暮らしを支えている様々なもの、家、水道、ゲーム、PC、コンビニやそこで売っている様々なものは、他の誰かの仕事でできているので、あなたもその分、誰かのために働かないといけないんですよ」と答えてくれた。その時は「この人、めっちゃちゃんとした答えを言うやん・・・」と驚き、おっしゃる通りと納得した。

だがやはり、メンタルヘルスやら福祉やらに関わることをずっとやっていると、またこのテーマが気になってくる。退院支援やら、就労支援やら、国が作る支援はいつも、「自立」や「働けること」を目標に作られるけれど、なぜそこを目指さないといけないんだろう? こういう発言もあんまりよろしくないのだろうが、就労支援施設にいくと、明らかに就労を目指すことが本人の幸福につながるように見えない人もいるし、「仕事としてやる必要あるの?」と思うような役割を任されている人もたまにいる。

もちろん、なにかしらの活動や役割がないと、人間は自信を失うし、人生に張り合いがなくなってしまう、という主張もわかる。だが、前にスタッフと利用者で季節ごとに演劇公演を行っている施設を見たことがあるのだが、そこの利用者さんと話した時は、自分の役割に対してすごく真剣だったし、たった一言しか台詞がない役でも自分の役割に誇りを持っているように見えた。別にみんながみんな給与をもらえる仕事を目指す必要なんかなくて、それぞれやりたい活動に熱心に打ち込むのではなぜいけないのだろうか?

単純に考えて、昔に比べれば、今の時代の「労働当たりの生産性」ははるかに上がっているはずだ。仮に労働当たりの生産性が5倍になっているとすれば、人口の1/5が働けば、昔と同程度の「物質的に豊かな暮らし」は営めるはずである。なのに、なぜ相変わらず全員が夜遅くまで働かないといけないのだろう?

経(世)済(民)の課題は、かつては「生産」だった

・・・ということがいつも気になってしまうので、気が向いた時に、たまーに経済思想の勉強をする。特に私が面白いなと思ったのが経済学者ガルブレイスの主張の中で指摘されていた「生産から分配へ」という言葉だ。

"経済"とは、語源的には経世済民、つまり、「世の中を治め、民衆を苦しみから救済すること」から来ているが、要するに、人々がハッピーになるために、必要なものが生産され、必要な人に届くようにするための、財や労働力の配分システムのことを指す。

かつての経済にとって、特に重要な課題は生産だった。戦後すぐの日本においては、人口が生きていくのに必要な食料も、清潔で安全な暮らしを行うための物資も、何もかも足りなかった。経済において重要なのは、必要な労働力を確保し、必要な物資の生産に割り当てること、そして、生産性を向上させることであった。高度経済成長期を通して、三種の神器と呼ばれた「(白黒)テレビ・洗濯機・冷蔵庫」や、3Cと呼ばれた「カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car) 」が国民のほぼ全家庭に行き渡るようになったのは、間違いなく、国全体の生産性が向上したことの証拠である。※2 

だが、バブル経済が終焉し、1990年代も終わりにさしかかってくると、景気は落ち込み、雇用率は低下し(それまで新卒は「金の卵」と呼ばれもてはやされていた)、いわゆる「生活必需品」の生産需要だけでは、人口全体の雇用が賄えなくなってきた。もはや、「民衆を苦しみから救済する」という目的において、モノの「生産」はさほど重要ではなくなってきた。それが(不動産を含めた)さまざまなモノの需要の低下という形で、誰の目にも見て分かるようになってきたのだ。

経(世)済(民)の課題は、「分配」へ

現代においては、毎年646万トンもの飲食可能な食糧が捨てられているにもかかわらず、(生活保護がもらえずに)餓死する人が出る。現代における「経済問題」と呼ばれるもののほとんどは、だいたいこのような形をしている。つまり、現代では、民衆に必要な「モノ」が不足していることではなく、(日本のどこかには)必要な「モノ」自体はあるのに、必要としている人にまでそれが提供されないことを「経済問題」と呼んでいるのだ。※3

であるがゆえに、現代の経済にとって、解決すべき課題は分配である。つまり、「モノを、どのようなルールで、誰に分配するのか?」という課題である ※4。

なぜ、「モノ」はあるのに、必要な人に届かないのだろうか? それは一言でいえば、市場の中にある「モノ」は「交換」でしか手に入れられないからである。木に実っているリンゴを捥ぐだけなら手を伸ばして取ればいいが、店頭に売られている100円のリンゴを手に入れるためには、代わりに100円分の"価値"を相手に提供しなければならない

現代において、ほぼ全てのものは「商品」、すなわち、「市場で取引されるもの」になる。電車の窓から見える野山であろうと、その山の「土地の権利者」がいて、その山の中のものは、法律上は土地の権利者の財産になっている。

このように考えていくと、今の世の中において、「なぜ働かなければいけないのか?」という問いの答えは、「民衆一人ひとりに必要な財やサービスを分配するためには(基本的には)市場における"交換"という形式を取る必要があるが、その形式を満たすためには、何かしらの形で、民衆一人ひとりが市場に対して、交換のための代価(この場合は労働力)を提供する必要があるから」だということになる。"経済"において、生産はもはや課題ではない。課題なのは分配の方だ。そして、現在の市場経済のルールの中で、民衆一人ひとりに必要なモノの「分配」を行うためには、全ての民衆が、"交換"の為り手になってもらうのが手っ取り早い。民衆全体の「雇用」の担保が問題になるのはまさにそのためである。"民衆全体の幸福"の向上にとって、「働いてモノを増やすこと」自体はさほど重要ではないが、「その人に必要なモノを分配して、"その人の幸福"を向上させる」ためには、「働いた」という口実が必要なのだ

もちろん、市場原理に頼らない財の分配方法もあるにはある。代表的なのは、「国による再配分の機能」で、生活保護や国民皆保険による医療保険や障害年金などがこれにあたる。他には、個人同士での贈与があり、給料を多くもらってる先輩が後輩にご飯を奢る、というのがこれにあたる。CAMPFIREがやっているクラウドファンディング事業なども、この「分配」の課題の解決策の一つだと言える。だが、それでも、結局は、「モノを、どのようなルールで、誰に分配するのか?」という課題において、これらが果たしている割合は本当に微々たるものにすぎず、ほとんどは市場原理によって決定されている。そうである以上、現行のシステム(=市場原理)に乗っかって分配の課題を解決できる「全人類の雇用の確保」という解決策が、最も人類全体の合意を取りやすいし、一番手っ取り早いのである。

「労働力の交換」による分配システムの限界

だが、経済システムを「民衆を苦しみから救済する」ためのシステムであるという観点から捉え直した時に、「雇用」すなわち「労働力の交換」に頼った分配システムは、明らかに様々な問題を含んでいる。

真っ先に浮かぶのは、「その人が市場に提供できる"労働力としての価値"の量と、その人が生きていく上で必要としている財やサービスの量はしばしば食い違う」という点だろう。僕の友人に消化器系の難病を抱えている人がいるが、病状が重い時ほど、多くのケアが必要であるにも関わらず、病状が重い時ほど、働くのは難しい。大抵の場合、市場に提供できる"労働力としての価値"が高い人は、生きていく上でどうしても必要になる財やサービスの量が比較的多くない人たちだし、その逆もまた然りである。「労働力の交換」に頼った分配システムは、その人の生存に必要なニーズの大きさを勘案しない。※5

もう一つ、「分配の手段としての雇用を生み出し続けなければならない」という問題がある。要するに、「民衆を苦しみから救済する」という目的に照らした時に、特に必要ない労働が生み出されるし、民衆もそれのために働かないといけない、ということである。デヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論」の中で紹介されているイギリスとオランダでの調査にもとづけば、一国の労働人口のうちの37%から40%が自分たちの仕事が全く価値のないどうでもいい仕事だと感じているという。

このような「クソどうでもいい仕事」を続けることが、働く人のメンタルにも悪影響を与えることは想像に難しくない。以下のじーくどらむすさんのnoteでは、「クソどうでもいい仕事」で賃金を貰い続けて心を病んだ経験が綴られている。

最後の問題点として、「働く」ことに必要なスキルの水準が上がり続けていて、人口全員分の仕事を用意することがどんどん難しくなっているという問題がある。現代の労働は、かつてのような単純労働ではなく、知的労働や感情労働がメインだ。工場に、地方から出てきた女工が並び、朝から晩まで糸引き車を動かすような労働は、ほとんど機械化されてしまった。現代は雇用の7割以上は第三次産業(サービス業)である。「働く」ために求められる知的水準やコミュニケーション能力(ここには「セクハラ・パワハラをしない」とか「多様性に配慮する」といった、周囲の人へのケア能力や倫理的振る舞いも含まれる)の水準がどんどん上がっている中で、あらゆる人を「職場」という空間に放り込まないといけない設計は、あまり良いシステムとはいえないだろう。

「分配」の新たな解決策は何があるか? ベーシックインカムについて

というようなことを考えていくと、やはり、「民衆全員が働く」という方法によって分配問題を解決するやり方は、あまりイケてない解決策だと思わざるを得ない。

分配問題を解決しようとすれば、さっさとベーシックインカムを導入するとかすればいいと思う。だが、どうも政治はまだその方向には進まないらしい。なんでなんだろう。気になる。私が勉強不足なのかしら。

ベーシックインカムやワークシェアリングなどの議論を聞くと、「働く人を減らしたら、今度は生産の課題が再燃するのでは」という懸念を持つ人が多いようだ。要するに、「ベーシックインカムなんかやったら、社会の維持に必要な(だけど給料がクソ安くて待遇がめちゃくちゃ悪い)仕事をやる人がいなくなる」という主張だろう。あとは不公平感の問題もある。「私は働いているのに、私が働いた分の生産物に頼るだけで、働かずに生きていける人がいることに納得いかない」という感覚だ。働いている人の中には、「ベーシックインカム」という言葉に、自分が一生懸命働いて得たお金を、働かずにぐうたらしていた人に奪われるイメージを持つ人も多いらしく、抵抗感も大きいようである。

この辺については勉強不足なのでなんとも言えないのだが、個人的には、ちゃんと社会的に「働いている人に感謝と敬意を持つ」ことをすればいいのではないかしら、と思っている。仮に、国民の8割が全く働かないただの消費者になって、残りの2割の仕事による生産物に頼って生きていくとしよう。だったらいっそ「消費者階級」と「生産者階級」のような階級を認めて、「生産者階級の人はエライ!」という社会的な雰囲気を作ってしまってもよいのではないか、と思っている。下手に「人類平等」を掲げて、あらゆる人に労働の義務を押し付けるより、やさしい世界だと思うのだ。

僕個人に関して言えば、仮にベーシックインカムが導入されても、ITエンジニアとしての仕事は好きだし、多分仕事を続けるのではないかと思っている。とはいえ、私の場合、メンタルの調子の好調不調が若干あるので、不調な時は仕事せずに安心して休めるといいなと思う。働ける時はエラぶって「俺は生産者階級やぞ!褒めてくれ!」って自慢したいし、働けない時は消費者階級として「いつもありがとうございます!ごはんおいしいです!」って言っていたい ※6。これだけ進歩した人類の科学力とそれによる生産力の向上があれば、それくらいの暮らしは実現可能なはずだ。早く実現してほしい。

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※1 繰り返すが、これは仕事でもなんでもなく、完全に個人の趣味の範囲のことなので、この記事には、詳しい人から見たら全然トンチンカンなことを言っていることが含まれているかもしれない(というか多分含まれているだろう)が、それは許してほしい。できれば、間違いが分かる方は指摘してほしいし、もっといえば次に何を勉強したらいいのかを具体的な書名とかで教えてほしい。

※2 2010年代においても、個人が生きていく上で、スマートフォンの所持やインターネットへのアクセスが新しい必須要件として登場してきている。このように、現代においても、全ての人においてこのような物質的(インフラ的)需要が満たされることの重要性はあいかわらず存在している。とはいえ、かつてに比べれば重要度は落ちているといえるだろうのではなかろうか。

※3 議論の単純化のために「モノ」と書いているが、本来なら「財・サービス」と書くべきだろう。もっといえば、おそらく「ケア」や「人」についても同じことが言えよう。「人」や「ケア(思いやり)」自体が不足していることというよりも、それは日本のどこかにはあるのだが、それが必要な人のところにまで分配されないことが課題なのだ。心理士の労働環境の悪さについてこの記事に書いたが、「心理的ケア」の不足がこれだけ叫ばれていて、心理士をやりたい人も多いにもかかわらず、心理士の待遇は低いままであり、心理士が増えない原因になっている。

※4 現在の市場経済が、どのようなルールで「モノを、どのようなルールで、誰に分配するのか?」という課題に対処しているのかについても、簡単に考察しておこう。市場経済は、主には「価格」というシステムにしたがって、労働力や材を分配する。需要が高いものは価格が上がり、需要が低いモノは価格が下がる。価格が上がれば、モノの生産にたくさんリソースが投下されるようになるし、価格が下がれば、モノの生産は行われなくなる。これによって、民衆にとって必要なモノが必要な分だけ生産されるように調整を行っている。「価格のシステム」は、政府が予測できないような突発的な需要の変化に対しても、臨機応変に対応し、自ずと生産量が調整されるという点において、極めて優れたシステムである。例えば、数ヶ月前、感染予防のために不織布マスクは、急激に数が不足して値段が急上昇したが、今まではマスク生産をしてこなかった多くの工場がマスク生産を始めたために、すぐに十分な数が提供され、店頭に並ぶようになった。だが価格のシステムの問題な点は、「その商品にお金を払う人が市場全体にどれだけ存在するか」に合わせて供給量(=生産量)を調整するだけであって、「個人の経済状況やニーズ」に合わせて商品の価格を決めるわけではない、という点だ。端的に言えば、価格のシステムは、商品を「その商品(or 労働力)に一番高いお金を払える人」に分配するのであって、「その商品(or 労働力)を一番必要としている人」に分配するわけではない。個人的な意見としては、価格のシステム「(市場全体における)ある商品の生産数の不足」という問題、つまりは生産の課題は極めてスマートに解決するものの、分配の課題に対してはあまりイケていない解決策であるように思える。

※5 もちろん、必要なモノがいっぱいある人は、他の人よりいっぱい努力するだろう、という論点はあるが。

※6 完全に余談だが、私は職場でストレスがたまると、お昼を奮発して、オフィス近くで1000円ちょっとくらいのランチを探して食べにいく癖がある。前職の市ヶ谷ならとんかつ屋の針の山、現職の日本橋のオフィスならうどん屋の谷やにはずいぶんお世話になった。連日の仕事で疲れている中で、おいしいランチに癒された時は、お店の人たちに心の底からの感謝と敬意を覚える。この記事では全体的に労働に対して否定的な論調で書いているが、私自身は多くの他の人の仕事に助けられて生きているなぁと思うし、良い仕事にはちゃんと感謝するべきだと思っている。

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