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鬼滅の刃における「弱さ」の描き方

以下の過去記事で、次のような問いを提示したことがある。

自分が、vulnerabilit(=弱さ)が過剰に溢れたコミュニティにたまたま生まれてきちゃった時に、どうするのか?

昨日、鬼滅の刃 無限列車編を見てきたのだが、この問いについて思うところがあったので、ケア論的な観点から、色々と書いてみたい。なお、鬼滅の刃の漫画版最新刊まで含めてネタバレ全開なのでご注意。

前回の記事で書いた通り、弱さ(=vulnerability)は、人間社会において、他者をコントロールできるほどの強烈なパワーを持っている。赤ん坊の泣き声然り、無力な者の「声」は、周囲にケアを要求する強烈なパワーがある。

にもかかわらず、鬼滅の刃では、「弱さ」は、"美しさ"として描かれることはあっても、"力"として描かれることがほとんどない

だからといって、鬼滅の刃の世界が、弱き者が強い物に蹂躙される弱肉強食の世界としてだけ描かれているかといえば、そうではない。むしろ、「人の弱さ」の尊重は、鬼滅の刃の物語全体を特徴づけるテーマである。弱いこと、死にゆくこと、傷つき得ること、つまりは「vulnerableであること」を人間の条件として積極的に捉え、その価値を慈しむ態度が鬼滅の刃全体を貫いている。

煉獄杏寿郎の母親の以下のセリフが明確に示すように、鬼滅の刃において、「ケア」は、「強き者」に課せられた責任として描かれる。

「弱き人を助けることは強く生まれたものの責務です
 責任を持って果たさなければならない使命なのです
 決して忘れることなきように」

ー 煉獄杏寿郎の母親

つまり、鬼滅の刃の世界においては、ボトムアップな「弱き者から強き者へのケア要求」ではなく、トップダウンな「社会規範による強き者から弱き者へのケア責任」によって、弱き者への社会的なケアが提供される。弱き者が、その「弱さの力」を振るうシーンはほとんど見られない。「女であること」を武器に戦っている人物もほとんど出てこない。

そもそもとして、責任(=responsiblity)という単語は、「要求に対して応答可能であること(=response + able)」から来ているが、煉獄杏寿郎に、弱き者をケアするように「要求」したのは、母親であって、当の「弱き者」ではない。煉獄杏寿郎は、死の間際まで、母親の「要求」に応え続けたのである。

(例外的に、敵側幹部の一人である上弦の肆は「お前は儂が可哀想だとは思わんのか!」「弱い者いじめをするな!」などの弱き者から強き者へのケア要求と思しき発言をしてくるが、このような理屈で殺人の責任を回避しようとする上弦の肆を、主人公らが叩きのめすというのが刀鍛冶の里編の本筋になっている)

"少年"漫画のケア

己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと
心を燃やせ 歯を喰いしばって前を向け
君が足を止めて蹲っても時間の流れは止まってくれない
共に寄り添って悲しんではくれない

ー 煉獄杏寿郎
死んだ生き物は土に還るだけなんだよ
べそべそしたって戻ってきやしねぇんだよ
悔しくても泣くんじゃねぇ
どんなに惨めでも恥ずかしくても生きてかなきゃならねぇんだぞ

ー 嘴平伊之助

鬼滅の刃が家父長制の価値観の残る明治時代を舞台としたマッチョな漫画であるということはわざわざ指摘するまでもないだろうが、このような家父長制の世界観は、冒頭の問いに対して明確な回答を持っている。一言で言えば、「男たるもの、(つらくても)歯を喰いしばって前を向け」という答えである。これは実は、前回の記事で書いた「母的思考」とも主張内容がほぼ一致している。「母親たるもの、(人間なので子供が憎らしくなることは当然あるけれども)、自らの弱さや加害性を律して、愛の名の下に非暴力的な共存関係を実践すべし」という主張である。

精神科医の斎藤環先生が書いた鬼滅の刃の考察でも、ほぼ同様の論点で、「正義の被害者(柱)」が「闇落ちした被害者(鬼)」と戦う物語として鬼滅の刃を考察している。vulnerabilityが過剰に溢れたコミュニティにおいては、どうやっても被害と加害に溢れてしまう。それでもなお、「人間は傷つき得る存在である」ということを受け入れ、正しき側に止まり続ける"意思"を持つこと。そして、そこから外れたものは、たとえ被害者であっても、「裁く」。

それゆえ他者のトラウマに深く関わろうとするものには、一定の「覚悟」が要求される。何度裏切られてもすべて受け入れる、という覚悟ではない。それでは単なる自暴自棄と区別がつかない。覚悟とは「もしこの一線を越えてしまったら、たとえ被害者であろうと裁く」という覚悟のことだ。ある種の罪は、許されてしまうことが地獄につながる。許さないこと、毅然として裁くことが時に救済となる可能性を、「鬼滅」はきわめて説得的に描く。

このような考え方は、現代の一般的なケア規範からすれば、やや逸脱した物に見えるかもしれない。だが、人類の歴史を振り返ってみれば、むしろこのような「マッチョな」回答こそが、冒頭の問いに対する回答としてずっと選ばれてきたのではなかろうか。

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