いつの間にやら、『適応障害』

お笑いの話でなくて申し訳ないけれど、今回はちょっと書き留めておきたい出来事があって、ここに記録させて頂く。
かなり暗い内容なので予めご了承ください。


2022年4月1日金曜日の終業時間直後。
やっと休みが来る!!と社内の皆が帰り支度をしながら喜ぶ中、私はその日も怒られていた。

会社の業務内容は、例えるならば『四角形を綺麗に書く』ような感じで、私はそれがあまり得意ではなかった。
尚且つ、取引先によって書き方の手順が違ったり、歪みや線のはみ出しが許されたり許されなかったりと細かい決まりがあるのも混乱させられた。
私の所属していた一課は男性2人、女性3人の少人数で仕事を回しており、その中でも男性陣、女性陣とで分かれて作業をしている。
女性陣のリーダーAさんは、3人の仕事の振り分けも任されていて、先の例えでいう所の『四角形をフリーハンドでもササッと手早く綺麗に仕上げられる人』だった。性格的にキッチリ定規を使っていたが。
もう1人のBさんはリーダーではないものの、勤務年数がAさんより長く『定規で四角形を書くけれど、線が足りなかったりすると手書きで補正して全体的に大まかに見れば及第点な仕上げにする』タイプの人だった。

私の教育係はAさんで、Bさんの大雑把な仕事振りを嫌っていたAさんから入社当初から細部まできっちりと仕事を指導された。
「Bさんのやり方は真似しないように」
「Bさんにアドバイスされたような仕事の仕方はしないように」
これがAさんの口癖だった。
初めて聞いた時から
『休憩中も仲良さそうにしてるのに…女同士怖い。でも指導係はAさんだしAさんのやり方で仕事しよう』
と思っていた。
Bさんの仕事の評価に関しては男性陣からも同じような事を聞いていたし、Aさんのやり方、Aさんの判断を真似出来るようになればこの職場で上手くいく。
そう思い必死に習得しようとしていた。
今までの職場もそんな要領で仕事を身に付けてきたし、頑張って努力すれば上手くいくと信じて疑いもしなかった。

しかし、それは徐々に崩れていく。

一緒にいるうちに少しづつ分かってくるのだが、Aさんは仕事は出来るのだが、聞き間違いや勘違い、せっかちな故パニックになりやすい人だった。
思い込みも激しい。
そしてこれはかなり後から気付くのだが、とても気分屋だった。

これによって何が起こるかというと、AさんからOKの出たことのある同じ内容の仕事を後日同じようにやっていると
『その順番でやらないで』
『前に教えたやり方と違う』
『この仕上がりでは取引先に出せない』
などと言われたりするのだ。

すごく細かく所から、結構大きな所まで。  
その度、私は必死にメモをするが、Aさんのその日の気分によって基準が変わるし、せっかちなAさんは私がメモを書く時間も探す時間もとても嫌がり急かす。
なので、必死に覚えておいて仕事を終えた直後に急いで書いた付箋をデスクに貼り付けるという方法に変えたりしたが、それでも不安なので、手遅れにならない段階でAさんに仕事をチェックして貰おうとしたり段取りを確認したりしようとすると、機嫌がいい時は
「だぁーいじょうぶよ!!あなた出来るもん!」
と見もせずに言い、機嫌の悪い時は
「え…?前にも教えたことあるよね?!いちいち聞かないで?」
と言い、全部終えた後になってからチェックを始め、機嫌が良い時にOKを出していた四角形まで
「線が1mm出てる」
「この取引先は下から書くやり方がいいのに上から書いてる」
と指導される。
「慌てなくていいからね、ゆっくりやりなさい」
と渡された仕事だからとミスの無いように慎重にやっていると、まだ納期がたっぷり残っていて他の仕事も迫ってないうちに
「あら…まだやってたの?」
というニュアンスの言葉をかけられ、ため息混じりに手伝ってくれる。
(ここで焦るとまた『仕事が荒い』とチェックを受ける)
ちなみに慎重にといっても極端に遅くなかったとは思う。
時間も意識し測りながらやっていたが、普段の業務とそこまでの差はなかった。

この段階ではまだ私は『仕事はAさんの気分によって基準が変わる』ということには気付いておらず、直されるのはあくまでも自分の覚えが悪いからだけだと申し訳なく思っていた。
少しでも迷惑を掛けないよう、休み時間の雑談の合間にやり方やコツをそれとなく聞いてみたり、何故か謎に始業2時間近く前に出勤しているAさんに思い切って
「私も始業前早く来るので、改めてもう一度仕事の基礎を教えてください」
と、頼んだこともあった。
(「そんなことはしなくていいのよ?就業中に教えるから」と断られた)
取ったメモも家に持って帰ったり(付箋の内容も休み時間にメモに書き写した)して休日に必死に覚えた。
それでもAさんの気分で駄目出しをくらう。

私はどうにか仕事を覚えよう、そのためにはまず
『私が仕事の何を分からないのか』
『どの辺りに悩んでいるのか』
を具体的に示してAさんに理解してもらおう、そうすればAさんもアドバイスしやすいのではないかと、休憩中や終業前後に拙いながらも自分の思いを何度も伝え続けた。
仕事を覚える為にもっと努力したいという思いも伝えた。
しかし、Aさんの返答は
「今度同じ仕事する時に教えるから」
そして当然のようにその発言は『今度』までに忘れられる。
ならば『今度』の時に
「ここを教えてくださいお願いします」
と頼もうものなら
「前に教えたよねぇ…(ため息)」
と、言われる。

そして極めつけは教わっていない仕事も『教えた!』と言われることだった。
一課の仕事は私が入社前の半年ぶり、1年ぶりに回ってくるなんて仕事もザラにあり、それを「今度教えるからね」と言ってAさんやBさんが片付けてしまった仕事をAさんは『ぴよさんもやった』と思い込んでしまうのだ。
次に同じ仕事がくる頃にはBさんもうろ覚えで誰がやったか覚えてないし、こうなると『教えたのにメモもしてないしやり方も覚えてない』と評価される。
絶対にやっていない記憶があるので
「教わっていないと思うのですが…」
とやんわりと否定しても、Aさんは私に教えたと思っているから「そんな訳ない!教えた!」
と返される。
そしてこの繰り返しにより、私自身も段々と
『もしかしたら私が忘れているのかもしれない』
『私が間違ってるのかもしれない』
と思うようになり
「すみません、やり方を忘れました。もう一度教えてください」
と私が謝り、呆れながらAさんが教えるというパターンが当たり前となった。
最早この件に関しては何が真実だったかも闇の中だ。誰も分からない。
もうどちらでもよい。
事実として『私が出来なかった』ことだけが残っているのだから。

こんなことを繰り返したり、他にも様々な要因があって、1年ほどかけてジワジワと『Aさんと意思の疎通が出来ないかもしれない…』と痛感していく。

このような状態が続くと、何がOKの判断基準なのか、『焦らないでいい』の許容時間はどのくらいなのか全く分からなくなり、何より
『Aさんに怒られないためにはどうすればいいのか』
という恐怖ばかりが脳内を大きく占めるようになった。

これが1年近く続き、結果Aさんから少しづつ少しづつ『仕事の出来ない人』の烙印を押されることとなる。
自分の仕事に必死で内情を知らないBさんも、一課と同じフロアにある二課の人達(こちらは20人くらいいる)も、Aさんの度々怒る姿と私の謝る姿しか見えていないので、もうフロアの全員に『仕事の出来ないぴよさん』だと思われていてもおかしくはなかった。
これに関しては、二課の何人かにやんわりと言われたこともあるので、思い込みや被害妄想ではないと思う。
私のいないところでAさんが『ぴよさんに困っている』とこぼしているらしいというのも、その時遠回しに言われて知った。
自分に直接被害が無いというのもあって、皆表面上は優しく話してくれるが、本心が見えずに誰が味方なのかもわからない状態だった。
仕事仲間の関係性なんて元々希薄なものだろうけど、この状態での『味方がいないかもしれない』はかなり怖くてきつかった。
Aさんとの事を客観的に第三者に判断して貰いたかったが、誰にも相談出来なかった。
仕事が出来て、人あたりが良くて、気が利いて、勤務年数もそこそこあって、上司の人望もあって、付き合いの長いAさんと、入って1年半。見れば怒られているばかりの私。
Aさんは陽キャで仕事でも先回りして、次の仕事の準備や他の人のサポートをいつの間にかしてしまうくらい気が利いていた。
その気遣いは休憩中の仕事仲間にも見られた。
どちらを信用するかといえば圧倒的にAさんだろう。
そんなAさんの事を、誰に相談出来るというのか。
Aさんの陰口ばかり叩くBさんにだって相談出来なかった。(ちなみにここの仲の悪さも板挟みになってなかなか悩まされた)

Aさんは私にだって優しい時もあった。

ここまで読まれた方はAさんが悪いような印象を受けたかもしれないが、キツい仕事をした帰りには
「大丈夫?疲れたよね?大変なのやってくれてありがとうね。ゆっくり休んでね」
と、声を掛けてくれたり、私や家族の体調が悪かった時にも気遣ってくれたりした。
物を貰ったりもした。
話すのも、休憩中の雑談だったら優しかったんだ。

だから余計、こうなったのは私が悪いのだろうと自分を責めたり困惑したりした。
それもあって誰にも言えなかった。

ここまで書いた事はあくまでも私からの視点でしかないし、もしかしたらAさんにしてみれば
『懸命に教えているのに覚えてくれない』
と、悩んでいたかもしれない。
Aさんの『思い込み』や『思い違い』を本人は知る由もないのだから。
多分、私がもっと賢くて器用で人付き合いとか立ち回りが上手ければ仕事もAさんとの関係性も上手くいったのだろう。

私が綺麗で完璧な四角形を書けていれば、なんの問題も無かった話だ。
 
Aさんは、悪くない。

今でも思う。
悪いのは不器用な私と、Aさんとの相性だったのだろうと。

もう、この頃には慣れているはずの仕事ですら、取り掛かろうとすると頭が真っ白になって軽くパニックを起こすようになっていた。

Aさんが隣にいる。
Aさんが見ている。

それだけで脳内がフリーズし、身体が強ばった。

せめて慣れている仕事だけはミスをしないようにと必死に頭を働かせ、神経をすり減らしながら毎日過ごしていた。
言われる前に率先して力のいる雑用や次の仕事の準備もするようにした。
何とか役に立ちたくて、いや、お荷物になりたくなくて必死だった。
でも、ほんのわずかにAさんの良いタイミングで用意されなかったそれらは『まだいらない』『今は邪魔』と苦笑いされながら拒否され続けた。
30分も経たぬうちに必要となる物ばかりなのに、元に戻され、Aさんが改めて引っ張り出してくる。
真意は分からないが『出来ない子が勝手に余計なことをしでかしてる』と思われていそうな雰囲気をAさんから感じ取った。
気のせいかもしれない。被害妄想かもしれない。
でも考えて考えてタイミングを少しづつ変えたりして出したものを全て拒否されたり、私の仕事振りを見て
「あら?それ合ってるかしら…?ああ、まぁ大丈夫ね…」
と、逐一否定から入られるのがとてつもなくプレッシャーでストレスだった。
Aさんから見る私には『出来の悪い駄目な人』という大前提がありそうなのが透けて見えた気がしたのだ。

いや、これも私の思い込みかもしれない。
空気が読めなかったり、間が悪いのは元々あった。
自分が鈍感なのを人のせいにしてはいけないな。

この頃からだろうか。
脳も心も身体もヘトヘトに疲れているというのに、寝付きがものすごく悪くなっていた。
ようやく眠ると、夜中に必ず1度はハッと目を覚まし、再び眠る。
明け方はアラームが鳴る前に目が覚める。
寝起きも即シャキシャキ動けるくらいになった。
目覚めが良くなったのは歳をとったからだと思っていたが、少し経ってから違うのだと気付かされる。

自分を肯定してくれる人は見つからない。
じわじわと真綿で首を絞めるように『お前は仕事の出来ない駄目な奴だ』とレッテルを貼られていくのを感じる。
元々自己肯定感のとても低い私は『小さなOK』を貰いながら少しづつ自信をつけていくタイプなので、逆は本当に地獄だった。
土下座から上げようとする頭を掴まれて地面におでこを擦り付けられ『お前の能力はここなんだよ!』と言われているようだった。
相談相手も、苦しさを吐き出す相手も見つけられなかった。
どの場所で誰に言えばいいのか。
駄目な私が弱音を吐いたり愚痴を言ったりしていいのか。
それよりもっと努力するべきだろう。
もっと、頑張れる。
未熟な自分を改善して、理不尽だと感じることは飲み込めば丸く収まる。
大人なら、社会人ならみんなそうやって生きてるんだから。
自分だって今までそうやって生きてきたじゃないか。

こうして家族にも友人にもこの気持ちは隠し、おくびにも出さずにいつも通り会話したり笑ったりした。
こういうのは得意なので誰にも気付かず隠し通せたと思う。

しかしこの判断は、この環境でかなり大きな間違いだということにこの段階ではまだ気付けない。

今年に入ってからだろうか。
寝起きは良いのに、起きて暫くすると倦怠感に襲われるようになった。
ネットで調べて貧血かもとか更年期かもとか色々対策をしてみたが、どうにも疲れが取れない。
常に疲れていてだるい感じが付きまとう。
夕食後に椅子からなかなか立ち上がれない時も頻繁にあった。
まぁ歳も歳だし、そういうもんだろうな。嫌だなぁなんて思いながら少しでも早く寝るようにした。

そのうち朝の通勤時に、だるさに加えて吐き気を催すようになってきた。
以前の職場で『仕事ダルいなー行きたくないなー』という感覚とは明らかに違うもので、多分『ダルいなー』は『めんどくさい』の置き換えなのだろうけど、この時感じていた『だるい』『行きたくない』は
『また今日が始まるのか』
『このまま会社に着かなければいいのに』
『帰りたい帰りたい帰りたい』
『行きたくない行きたくない行きたくない』
『怖い怖い怖い……』
『嫌だ嫌だ嫌だ……』
こんな感じだった。
Aさん今日休まないかな。とか小学生みたいなことも真剣に願った。
それでも会社に着いてしまえば不思議とその不安感は消えていたし、甘っちょろいだけだと、もっと頑張らればと叱咤しやる気を奮い立たせた。

次の小さな変化は、叱られなくても『出来ない』『失敗した』と思った時点で時たま涙ぐむようになった。
さすがに毎回ではないのだが『やっぱり駄目な人間だ』『なんで出来ないんだろう』と焦りながら、たまに涙腺が緩むのが分かった。
必死に堪えて鼻をかむ振りをしながら拭うのだが、本当に無意識で出てくるので驚いた。

もっと驚いたのが、尾籠な話で申し訳ないのだが、仕事中に尿意を催して御手洗に行ったのに全く出なかったことだ。
筋肉が緊張で強ばったままだったのだろう。
身体を緩めるまでに時間がかかった。
そんなに緊張していたのかと、改めて思う出来事のひとつ。

こんなに色々症状を感じるようになっても
『まだ頑張れる』
『まだ大丈夫』
と思っていたのだが、3月半ばになるといよいよおかしいかもと思う症状が現れた。

当時の唯一の楽しみ、我がライフワークとも言えるべきお笑いライブで暗転中にふと仕事のことを思い出し、瞬間的にとてつもない不安感に襲われるようになった。

さすがにここまでくると、これはまずいのかもと考えるようになったが、改善策や対処法にまで頭を回すことが出来なかった。
会社も年度末で忙しくなっていたし、どうしようかなくらいで考える余裕は無かった。

そして、決算の終わった4月1日、ようやく冒頭に戻るのだが、終業間際にいつものようにAさんに怒られていた。
そう、もう『いつものように』だ。
「私、こんなやり方教えてない!」
1ヶ月くらい前に同じ作業した時はOK出してましたが…そうですか。
「すみません」と謝りながら俯いて聞いていると
「もういい…私帰る。月曜日の朝直しといて」
そう言い残してAさんはぷいっと帰ってしまった。

また怒らせてしまった。
月曜日、早く来て直さないとな…
月曜日…早く行ってまた怒られるのか…嫌だな…

なんか、その瞬間、私の中で何かが弾けた。

張り詰めていたやる気がパンっと弾けたというか、コップの縁ギリギリまで溜まっていた『我慢』という液体に、最後の一滴を垂らされて溢れてしまったというか…

この日の事が決定打になった訳でない。
こんなことは日常茶飯事だった。

でもなんか、この日のこの瞬間に『もう無理かも』と、初めて思ってしまった。

その日の帰りはBさんと帰ったのだが、正直心ここに在らずで何を話したかも、どんな顔をしていたかも覚えてない。

家に帰って、確か今夜は娘が友達の所に泊まりに行くって言ってたなぁ。なんてのを思い出して、ちょっと楽できるなぁなんて思いながら、いつものように夕飯を作り、帰宅した旦那と普通にテレビを見ながら他愛もない話をしながら食事した。

食事が終わって、片付けをしてる横で旦那はそのままテレビを見ていて。
黙って洗い物をしていたら、急にこの気持ちを隠しているのが苦しくなった。
ずっと誤魔化し続けてきたのに。
それは私の心が『弾けた』からかもしれない。

そこで思わず
「あのさ…」
とさっきまでとは違う素の顔で旦那に話し掛けた。
「うん?どしたの?」
と、さっきと声のトーンが違うのに驚きながらテレビから目を離しこちらを見る旦那。

何から話そう?

何を話せばいいだろう?

苦しさを聞いては欲しかったけれど、話したいことの整理が出来ずに数秒押し黙った後、絞り出すような小さな声でこう言った。

「しんどい…」

それは、一番聞いてほしい、分かって欲しい気持ちだった。
言葉にしてみて初めて気が付いた。
そう。私はずっと、しんどかったんだ。
自覚するともう、悲しくてたまらなくて。
私は旦那の前でわんわん泣いた。
その日まで涙ぐむことはあっても、泣くことまではなかった。
でも、もう自分でもどうすることも出来ないくらい、とめどなく涙が溢れてきて
「しんどい…しんどい…」
とだけ繰り返しながら、子供のようにしゃくり上げて泣き続けた。
旦那は「俺、もしかしてなんかした?!」と狼狽えていたが、私が首を横にブンブン振ると安心したような顔をしてずっと背中をぽんぽんと叩いてくれた。
暫く泣きまくってようやく少し落ち着き、私は旦那に掻い摘んで会社での現状の話や『しんどい』を掘り下げた話をした。

ひと通り話した後で、旦那に心療内科の受診を勧められた。

会社での詳しい事情は分かってあげられないけど、この状態を見てると精神的にかなり参ってるのは分かる。
このまま出社し続けるのは無理だろうし、休職するにしても辞めるにしても診断書は必要だから、明日にでも行っておいで。俺の知ってる所、予約無しでも大丈夫だから。

そう諭され病院を教えてもらい、翌日の土曜日に初めて心療内科に足を踏み入れた。
勝手なイメージで、重苦しい空気が漂っているのかと思っていたのだが院内は明るくて、待っている人の表情も暗くは無さそうだった。
内科とか歯医者とかと全く変わらない雰囲気の待合室。

ただ書いたカルテと一緒に『バウムテスト』があったけれど。
テレビで見たことがある。
木の絵を描いて心理状態を測るテストだ。
見られてないだろうけど、周りに人がいる所で絵を描くのは恥ずかしいな。
絵下手っぴなのにな。
なんて素っ頓狂な事を考えられたのは少しはリラックス出来た証拠だろうか。

院内はかなり混んでいて、長い時間待ちながら、みんな何かに疲れてるんだな。
平気な顔して見えるあの人もあの人もしんどい思いを抱えてるんだな。と、現代社会の歪みを憂いだ。

1時間程待ち、ようやく名前を呼ばれ診察室に入ると、椅子の横にボックスティッシュが置いてあるのが見えた。

ああ、ここでは泣いていいんだな。

問診を受け、今置かれている状況を説明すると、カルテを見ながら少し考えて先生がこう言った。
「適応障害の可能性が高いですね。」

適応障害。
芸能ニュースなどで聞くあれか。
まさか、私にそんな診断がくだるとは。
病気だと診断すらされない可能性もあると思ってた。

先生は更に言葉を続ける。
「しかもおそらく鬱病1歩手前の状態です。今の状態で環境が変わらないまま会社に通い続けると、突然涙が出たりしますよ」

これはかなりショックだった。

そんなに酷いの?!
『気分がちょっと激しく落ち込んだ』
くらいだと思ってたのに。
鬱1歩手前?
しかも『突然涙が出る』って…
たまになる涙ぐむやつと症状が似てるのでは…
手前どころか、片足踏み入れてるんじゃ…

鬱の体験記やエッセイは以前色々読んでおり、補足的にネットで少し調べたりもして僅かではあるが知識はあった。 
回復まで相当の時間と労力を費やすというのも何となく知っていた。

受診するのがあと数ヶ月遅かったら、もしかして…

想像したらゾッとした。

「環境を変えればちょっとづつ良くなってくると思います。とりあえず診断書をお出ししましょうか?」

先生のその言葉に少し安心し、診断書をお願いした。
薬も出すか聞かれたが、精神系の薬の服用は合わなかった時が怖いので、先生と相談して一旦飲まずに様子を見て、どうしても辛かったら飲むことに決めた。

こうして私は診断書を貰って、正式に『適応障害の人間』となった。

診断書。改めて文字にされると実感が湧いてくる。

すっかり記憶から抜けていたが、この日の写真フォルダを見返したら、この後と翌日も推しさんを観にライブ行ってた。さすがにびっくりだよ。笑
この日、私はちゃんと笑えてただろうか。

そして月曜日。
死ぬほど吐きそうだったし逃げたかったが、ここまできたんだしと、腹をくくって会社に病院へ行ったことを伝えた。
割とすんなり退職することが決まった。
何処も人は足りてるから、部署異動なんて出来ないのは分かっていたし、何よりやっぱり会社のお荷物を厄介払いしたがっているのも感じた。
私としても仮に部署異動出来たとて、狭い社内でAさんに会わないわけがないし、顔を見たらまた何らかの症状が出そうで回復は難しいだろうと思っていた。
休職も一時しのぎにしかならないだろうし。

その日Aさんには会わなかったが、診断書の画像と退職する旨と最後に
『手を掛けて時間を掛けて指導してくださったのに期待に添えず申し訳ありませんでした』
と一文を添えたLINEを送った。
返事は知らない。
既読になったのかも知らない。
送信後、直ぐにブロックしたから。
もう文字ですらAさんを感じるのが怖かった。
でも、もうこれでさようなら。
自由になった、と思った。

解放はされたが、その日からこれからを『どう過ごしていい』のか分からず戸惑った。

退職して最初の数日は、とにかく眠くてたまらず日中もウトウトしていた。抗わずに仮眠をとった。
身体も心も疲れていたのだろうか。

でも暫くして身体の疲れが取れてくると、適応障害って回復までの間
『どんな過ごし方をするのがベスト』なのか。
『どんなことをしたらタブー』なのか。
例えば『何も考えずに休むのがいい』とか『好きなことに打ち込んでみた方がいい』とか『身体を動かさないのはダメ』とか、そういった指南書みたいなものが欲しくなった。
それを知りたくて、Web検索したり図書館へ行って適応障害の本を借りまくったりして読み漁った。
適応障害の事ももっと知りたかったし。
とはいえ、適応障害って比較的新しい病名らしく、なる要因のようなことは分かっても、なってからのことは図書館の資料やWebの医療記述ページではあまり参考になる物が見つからなかった。
精神科のお医者様がやっているYouTubeが一番参考になった気がする。
それによると適応障害の場合、半年くらいで『快復』するパターンの人が多いらしい。
スッキリ元のように戻るようだ。

ただ、やはりそこでも快復までの過ごし方みたいなものは見つからなかった。
どうしたものか。

結局、時間を掛けて家事をしてみたり、体がなまらないように散歩に出掛けたりした。
観る気力の無かった録画の録り溜めや観てなかった登録チャンネルのYouTube動画も観た。

初診から1ヶ月後。
前回の検査結果を聞きに再び心療内科へ訪れた。

バウムテスト診断結果
CES-D検索結果

CES-Dの結果を見てまたもや驚く。
相当な数値出てますが…

前回の診察の時も驚いたが、自分では気が付かないほど追い詰められてたらしい。
文字や数値にするとここまで酷かったのかと分からされる。

「前回より随分と表情が柔らかくなってますね」
と言われ、酷くならない限り再来院はしなくてもいいでしょうと帰された。

表情が柔らかくなった?
そうなのだろうか?
未だに日々をどう過ごしていいのか戸惑っているというのに、少しは改善の兆しが見えてきたのだろうか。
本人に自覚は全くないのに不思議なものだ。

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そして、それから3ヶ月。
適応障害と診断されて5ヶ月近くが経つ。

その間にも不安感に引き戻されそうな事も、ぶり返しそうな出来事も色々あったりしたが(これも書きたいけど長くなりそうなので割愛)ありがたいことに良いご縁があり、無事に再就職へと落ち着けた。
私は今、とても幸せな日々を過ごしている。
仕事はまだまだ慣れないが、職場環境にも人間関係にも悩むことなく楽しくやれている。
仕事にだけ集中して打ち込めることが、こんなにも楽しいのかと久しぶりに感じている。

ただ、適応障害から回復してきてるのかと聞かれたら、首を捻ってしまう。

なった時同様に、変化が分からない。
そして『以前の私』をもう思い出せない。
もしかしたら完全に元には戻れないのかもしれない。
それはまるで私が書いていた歪な四角形のように少し歪んで。
それならばそれで『今の私』と向き合い付き合っていくしかない。

私には完璧な四角形は書けない。

これから、私の心がどうなるかなんて分からないけれど、気楽に生きられることを願う。
そして、そんな道を模索していこうと思う。

これを読んでくださった皆様も、ちょっとでも違和感を感じたら医師の診断を受けてください。
自分が思っているより『大丈夫』ではない状態かもしれないですし、心療内科は思ったよりも気軽に受診出来ました。
『心療内科を受診』という行為自体は大事ではありません。
風邪をひいたら内科に行くように、気を楽にして行ってみてください。

少しでも『しんどい』人が減りますように。

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